オリーブ  |  davinci

ちゃん育ちは」なにひとつ言い返せなかった。いたたまれなくてたまらなかった。
 だから過酷であれば過酷であるほど、柴は燃えた。ああ、いまぼくは“労働”している。梱包を剥きながら、台車で新刊を運びながら、ぴこぴこレジを打ちながら、“労働”する自分にうっとり酔いしれた。単純に大好きな本に囲まれて働くのは楽しかったし、体を動かすのは気持ちがよかった。
 星山書店猫ノ池支店で、柴は文庫・新書のコーナーを担当している。夏は文庫が花形だ。夏の文庫フェアのポップで埋めつくされた店内は、普段とは活気がちがう。
 ある日の午後、発注を終えて棚の整理をしていたら、「かき氷食べに行かん?」  
 背中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。ふりかえると、おだんご頭に、トロピカルな柄のワンピースを着たチエコが立っていた。

 

オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

9

っても血縁関係はなく、父の大学時代の友人である。柴にはこのような「おじさん」が世界各地に存在する)も、「
遠慮しないでいつまでいてくれてもかまわない」と言ってくれていたから、なにもわざわざ低賃金な上に過酷な書店アルバイトをする必要などなかったのだけれど、女の子を追いかけて知らない土地にやってきて、なにもせずただぶらぶらしてるなんていかにも体裁が悪いように思えた。
 なにより柴は“労働”がしたかった。大学(専攻は英米文学だった)を卒業してからずっと、ぶらぶら海外を旅したり、ミニコミ誌をつくったり、クリエイターの知人の仕事を手伝ったりとで、まともに“労働”したことがなかったのだ。
 そんな自分を柴は恥じた。「貴族みたい」と吐き捨てるように言ったチエコの冷たい目。思い出すとかっと顔が熱くなる。「そんなんでカフェなんて開いてまともにやってけると思ってんの? 考えが甘いのよ、これだからおぼっ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

ューにもあったよね、かき氷」
「ああ」そこでチエコは忌々しそうに顔を歪ませた。「だめだめ、うちのは。氷がっちがちだし、シロップも甘ったるいばっかでぜんぜんおいしくないから」
 名古屋にきてからというもの、チエコはとことん柴につれなくしていた。柴のほうから会いに行くことはあっても(といっても客として喫茶オリーブに行くだけなのだが)、チエコのほうから出向いてくることなど一度もなかった。いったいどういう風の吹きまわしだろう。
 柴は腕時計に目を落とした。もうすぐ遅番のバイトがやってくる時間だ。今日は入荷も少なかったし、発注も終わっている。早めにあがらせてもらえるよう店長にかけあってみるか。
 と、ちょうどそこへ事務所から出てきた店長が通りかかった。さっとチエコから身を離して駆け寄っていくと、 「なに、彼女?」

 夏がくると、チエコは週に二、三日はこの服を着ている。「夏だ!」という気分が盛りあがっていいのだという。アロハシャツみたいなものだろうか。
「食べに行かん? と言われても……仕事中なんだけどな」
 中腰の姿勢のまま柴は言った。エプロンの×になってるところを後ろからぐいぐい引っぱられ、ようやく姿勢を正す。腰が痛い。
「見ればわかる」
「…………うん、そうだよね。わかるよね」
「ひとりでかき氷食べるのって、なんかやなのよ。ハッピー感が薄れる気がして。つきあってよ」
 ハッピー感が薄れる。わからないでもない。ケーキにパフェにクレープ、甘いものはひとりで食べるもんじゃない。
「わざわざ食べに行かなくたって、たしかオリーブのメニ

8

 

オリーブ

 

オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

7

 銀縁眼鏡のふちっこをきらりと光らせて、店長が訊いた。じろじろとぶしつけにチエコを見ている。その視線から逃れるように、チエコは文庫コーナーの奥まったところへ移動していく。
「いや、そんなんじゃないです」
 自分で否定しておきながら、ほんのり傷ついた。そんなんじゃないんだっていうなら、なんだっていうんだろう。
「いいよ、あがっても。もうすぐ遅番もくるし。ほんとは彼女なんでしょ」
 ちらちらとチエコの背中を目で追いながら店長が言う。
 柴より三つ年上の彼は、いつも無表情でぼそぼそ話すものだからなにを考えてるのかよくわからない。古い日本文学が好きらしく、本の話をするときだけ目の奥に熱っぽさが宿る。制服のポロシャツのボタンをいちばん上までぴっちり閉めているのは、この店では店長と柴だけだ。そういった意味ではシンパシーをおぼえるのだけれど(ポロ

シャツのボタンはいちばん上まで閉めなくてはならない。だれがなんと言おうとそうと決まっているのだ)、いまいちなじめないでいる。
「すいません。じゃあ、お言葉に甘えて、今日はお先に失礼します」
 これ以上、否定するのもめんどうだったのでそれだけ言って、立ち読みしているチエコのもとへ向かう。途中、なにか不穏な気配を感じてふりかえると、文庫コーナーの手前に突っ立ったままこちらをうかがっていた店長と目が合った。あっ、としばらく見つめあっていたら、やがて店長はばつが悪そうに背中を丸めてレジのほうへ歩いていってしまった。いったいなんなんだ。
「なんなのあいつ。きもいんだけど」
 本から顔をあげずにチエコが言った。
「さあ」
 肩をすくめ、柴はチエコが手にしている文庫本の表紙に

 そう言って、柴はチエコの手から文庫本を奪い取った。「一割引きで買えるんだ。プレゼントするよ」
 たかだか文庫本一冊で恩を売ろうとしたわけじゃない。ぼくのところにくればいつでも安く本が買えるよ、なんて気を引こうとしたわけでもない。ただチエコの喜ぶ顔が見たかったのだ。なのに、
「いい」
 と乱暴に言って、チエコは柴の手から文庫本をもぎとった。唇がへの字に曲がってる。この世のなにもかもを突っぱねるような頑なな横顔。こうなったらもうお手上げだ。
 柴はため息をついた。またチエコを怒らせてしまった。

 ふたりで書店を出て、商店街の中にあるちいさな甘味処に入った。チエコはいちごミルクにソフトクリームをトッピングしたもの、柴は宇治金時に白玉をトッピングしたものを注文した。

 

オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

6

目を走らせた。フワンソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』。
「めずらしいね、サガンなんて読んだっけ?」
「むかーし、『悲しみよこんにちは』だけは読んだことある。やっぱはずせないじゃん、あれは。オリーブ少女的に」
「ふうん、そうなんだ」
 言われてみれば、これまでつきあってきた女の子たちの本棚には決まって『悲しみよこんにちは』が差し込まれていた気がする。とくに好きな作家ではないから気に留めたこともなかった。歴代のガールフレンドとチエコの意外な共通点を見つけて、なんだか柴はうれしかった。自分はまちがってない、と背中を押された気がして。マガジンハウスに感謝したいぐらいだった(いや待てよ、ここはサガンに感謝のほうが順当か?)。
「もうあがるから、それ貸して」

!」。
 そんなことを言う君のほうこそかわいいよ。
 と思うのだけれど、うっかりそんなこと口にしようものなら、「きもい」とか「さむい」とか「よくそんなこと真顔で言えるね。あんたいったい何者?」とか、ものすごい勢いで非難されることは目に見えてるので、なにも言わずにしゃりしゃり宇治金時を口に運ぶ。氷がさらさらしていて、口の中にいれるとあっというまに溶ける。抹茶の苦味がほんのり感じられる蜜に、甘さ控えめのあずき。文句なしにおいしい。柴の地図にまた新たな店が加わった。チエコのスプーンが何度も伸びてきて、二個しかついてない白玉ごと氷をごっそりさらっていった。
「ほんとはあたし、宇治金時のほうが好きなんだ。でもいちごのほうがかわいいじゃん? だからいっつもいちごを頼んじゃうんだよね」
「交換してあげようか?」

 かき氷が運ばれてくるまで、チエコはまともに口をきいてくれなかった。なにが気に入らないのか終始ふくれつら。気を使って話しかけてもうんともすんともいわない。
 にもかかわらず、
「かわいい!」
 顔の大きさぐらいはありそうなかき氷を見て、いきなり興奮したように叫ぶものだから思わず笑ってしまった。 「なによ」
 ぎろりと睨みつけられ、柴はすぐに笑顔を引っ込めた。
 かき氷でもオムライスでもナッツやレーズンのいっぱい入ったぼってりしたパンでも、チエコにかかればなんでも「かわいい!」になってしまう。いっしょに町を歩くと、あっちでこっちで「かわいい!」「かわいい!」。カフェオレボウルがかわいい、タンタンのフィギュアがかわいい、エッフェル塔の置物がかわいい。ときには涙ぐんだりまでして、「うっ、このジャムの瓶、なんてかわいいの

5

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

オリーブ

 
 

「名古屋に帰る。だから別れて」
 突然、切り出された。
 理由をたずねても、「もう決めたの」の一点張りで、らちがあかなかった。だったらぼくも名古屋に行くよ、と言ったら、軽蔑をあらわにしたような目で見られた。「本気で言ってるの?」
 あの日、花見をしなかったら。あの日、雨が降らなかったら。なにかが変わっていただろうか。
 そのときまだ柴は、ちょっとしたすれちがいで起こってしまったことなのだと思っていた。その日の天気で左右されてしまう、その程度のことなのだと思い込んでいた。気分屋のチエコのことだ。困らせるようなことを言って自分を試しているだけなんだと。
 しかし、それから一週間もしないうちにチエコはほんとうに名古屋の実家に戻ってしまったらしかった。アパートを訪ねたらすでに空き部屋になっていた。携帯に何度電話

「いい」
 すげない返事。いったいどうしろっていうんだろう。チエコの笑顔が遠い。
 別れ話を持ち出されたのは突然のことだった。毎年恒例になっている、ペントハウスに住む友人宅での花見パーティー。あいにくの雨で、屋上から見おろした井の頭公園の桜はまぼろしのようにぼんやりしていた。それはそれで風情があってよかったのだけれど、なんとなく柴はわびしかった。そのわびしさがなにに由来するものなのかはよくわからなかった。雨なのか、桜なのか、毎年恒例の花見パーティーなのか、そのどれもなのか。
 わびしさを引きずったままシャンパンとワインで酔っぱらい、日付の変わる前には友人宅を出て、ふたりでひとつの傘に入ってチエコの部屋まで帰った。チエコがシャワーを浴びているあいだにコーヒーをいれて、すっかりリラックスした気分になっていたところで、

4

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

オリーブ

をかけてもつながらない。
 そこでようやく現実が降りてきた。ぼくも名古屋に行くよ、だって? そんなことできるわけがないじゃないか。
 知り合いのツテでカルチャー誌にコラムやレビューを書いたり、イベントの企画やDJをしたり、ギャラリーの手伝いやデザイン事務所の雑用をしたり、そのころ柴のしていた仕事のほとんどがなにかまやかしのようなものだった。東京という場所でしかできない、東京でしか通用しない、わけのわからない仕事。知り合いだけは多かったので、仕事にあぶれるようなことはなかった。請われるままにあちこち飛んでいって、請われるままになんでもやった。ある程度のことはなんでもこなせた。そんな柴を器用貧乏だとチエコは揶揄していたけれど、実際そのとおりだった。
 本や映画や音楽やアートや、いろんなことに興味があった。自然とまわりにもそういう人間が集まってきた。彼ら

 

オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

3

に誘われるままにクリエイティブなことに携わっていれば、自分もひとかどの人間になれるんじゃないかと思っていた時期もあった。でもちがった。ぼくにはなにもない。ぼくはなにかを0から作りだせる人間ではない。クリエイターではなくどこまで行ってもファン止まり。それは、努力でどうにかなるようなことではなかった。最初からぜんぶ決まっていることのように柴には思えた。
 チエコにはすべてお見通しだったんだろう。あの正体不明のわびしさは、東京というまぼろしみたいな町で何者にもなれずぼんやりしてる、自分自身に対してのものだったのか。
 そう思ったらやもたてもたまらず、名古屋行きの新幹線に乗っていた。猫ノ池商店街というところで喫茶オリーブという喫茶店をやっている(「猫ノ池町ってとこに住んでたの。かわいい地名じゃない? お店の名前もオリーブっていうの、かわいいでしょ」)。その情報だけを頼りに、

実家をつきとめた。扉を押し開けてチエコに求婚し、名古屋でも東京でももうどこでもいい、なにか地に足のついた仕事に就いて、ふたりで暮らそう。そうすればすべてがうまくいくと思った。
 あのとき自分は舞いあがっていたのだろう。好きな子を追いかけて、なにもかも捨てて(というほどたいしたものなどなにも持っていなかったのだが)、新幹線に飛び乗ってしまった自分に酔っていたのだろう。いきなり実家に押しかけてあんなこと――恥ずかしくて思い出したくもない――を叫んでしまうなんて。
「あのときは、ごめん」
 山盛りの宇治金時を食べ終え(といっても三分の一はチエコが食べたようなものだったのだが)、柴はぽつりと言った。腹の底がひえびえしている。
「あのときって?」
 チエコも寒いのだろうか(そりゃそうだ。あんだけの量

 

オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

2

のかき氷を食べたんだから)、ノースリーブから飛び出した二の腕を両手で抱きかかえるようにしてさすっている。店員にあったかいお茶を頼んでから、柴は改まって頭を下げた。
「ほら、いきなり押しかけてあんなこと言ってしまって。まだ謝ってなかったよね。ご両親にはいらない誤解させちゃったし、ちゃんと君に確認した上で言うべきことだったのに。いまさらかもしれないけど」
 すこしの沈黙を置いて、やがてチエコがぶっと噴き出した。
「ほんといまさらだよ。あんたが空気読めないのなんていまにはじまったことじゃないじゃん」
 最近なかなかお目にかかれなかったような、こぼれるような笑顔。夢をみているような心地で柴は目をしばたたかせた。
「いいよもう、あれはあれで。おもしろかったから」