オリーブ  |  davinci

オリーブ

 

 
 
 

                            吉川トリコ

第四回 前編

1

                                          Toriko Yoshikawa

【主要な登場人物】
ミツコ●名古屋在住でオリーブ少女を自負する中学三年生。幼なじみの空太以外これといった友達がいない。突如、東京から帰郷した姉・チエコをうっとうしく感じていたが、姉を追いかけ東京からやってきた柴にひと目惚れする。
チエコ●28歳の元オリーブ少女。実家の喫茶オリーブをカフェにする!といきまいて帰郷。が、そううまくいく筈もなく実家でダラダラとした日々を送っていたある日、柴とは何から何まで違う空太にかつてないときめきを覚える。
空太●女の裸を生で見ることに情熱を燃やす健全な男子中学生。ひょんなことからミツコにキスをされ、それ以来ミツコの気をひくことにやっきになっている。チエコは良き姉的存在。
柴●ボーダーのカットソーをこよなく愛する生粋のオリーブボーイ(メガネ着用)。東京からチエコを追いかけてきたものの、つれないチエコとは反対に、よくなついてくれるミツコをかわいく思いはじめている。

 
 
 
 

                    
オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

                                                                                          吉川トリコ

                                                                                                                                            Toriko Yoshikawa

 

オリーブ

16

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

                                                                       第四回 
 「カメラ!カメラ!カメラ!」
       前 編

 

オリーブ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

15

 二〇〇四年七月

 矢野柴は地図をつくっていた。
 たとえば新しい町で暮らしはじめたとき、どこかへ旅行に出かけたとき、彼はまず地図をつくる。首からカメラをぶらさげて気の向くままに町をそぞろ歩く。アパート(もしくはホテル)を出てすぐのところに古いけれどかんじのいいカフェがあり、その並びには安くてうまい定食屋もある。角を曲がるとひろびろした公園があって、ひなたぼっこをするには最適だ。毛足の長い大型犬に引きずられるように散歩しているヒゲのおじさんを見つけて、ぱちりと記念に一枚。大通りをすこし入ったところには、営業してるのかどうか怪しいような古本屋がひっそり建っていて、ドキドキしながら扉を押す。狭い店内には天井まで本が山積みになっており、店の奥に座っている老眼鏡の店主は「いらっしゃいませ」も言わない。これはなかなかいいあんば

いだ、と思い、埃臭くて黴臭い独特の空気の中で一冊の本を選ぶ。そのときの気分にぴったり添うような本を見つけたら、すぐにとってかえして、晴れた日には公園でひなたぼっこをしながら、雨の日にはアパート(もしくはホテル
)の近くのカフェでコーヒーを飲みながら買ったばかりの本を開く。
 それと忘れちゃいけないのがパン屋さん。これだけは絶対ゆずれない。それで地図はほぼ完成だ。洋服やレコードを買うときや、映画や美術館に行くとき、もっと本気で古本ハンティングな気分のときは、電車に乗って遠くの町へ行く。そこでまた新たな地図をつくる。
 とはいっても彼の行動範囲は狭い。たとえば東京なら渋谷と吉祥寺をつなぐ井の頭線沿いをうろちょろする程度(
だから神保町に行くのは彼にとっては遠出になる)。パリ、ロンドン、ニューヨーク、サンフランシスコ、世界中どこへいってもそれは変わらない。建築家の父とシャンソ

でいいと思っていた柴の計画は無惨にも握りつぶされた。
「柴がいっしょだと楽すぎてつまんない。なんでフランス語しゃべれるのよ。ふつーしゃべれるか、フランス語。日本人のくせに」
 旅に出る理由は不自由になるためなのに、と不満そうに唇をとがらせてチエコは言った。不自由? 自由じゃなくて? と訊き返すと、自由じゃなくて不自由に、とチエコはきっぱりとくりかえした。
「外国行くと、言葉通じないでしょ? あたし、フランス語どころか英語もぜんぜんだめだし。そうすると、どこ行っても往生しちゃうのよ。スチュワーデスにコーフィープリーズっていうのもいちいち緊張するし、飛行機の乗り継ぎだってどうしたらいいのかわかんない。現地に着いたら着いたでホテルやレストランで身ぶり手ぶりでわあわあやらなきゃなんない。そういうめんどくさいかんじ、それがあたしは好きなの。そういうの味わうためだけにわざわ

14

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

オリーブ

ン歌手の母に連れられ、パリには何度も足を運んだことがあるが、シャンゼリゼ通りを歩いたのもエッフェル塔にのぼったのもつい最近のことだ。
「なに言ってんの、パリにきてんだからまずシャンゼリゼにエッフェル塔、セーヌ川クルーズだってしなくちゃ。カフェ・ド・ムーランでクリームブリュレを食べるのも忘れずに(※1)。ポンヌフ橋にも行くわよ、オレンジ色のジャージ着て(※2)」
 つきあいはじめて二年目の秋、ふたりで貯めていた五百円玉貯金箱がいっぱいになったので、チエコとパリへ行った。十九世紀に建てられたという古いパサージュの中にあるホテルショパンに泊まり、毎日のようにあちこち連れまわされた。ベルサイユにまで連れて行かれ『ベ
ルサイユのばら』ごっこまでやらされた(チエコはオスカル、柴はアンドレ)。古書街と蚤の市をまわって、あとはおいしいクロワッサンとフランスパンが食べられればそれ

 

13

 それまで柴がつきあってきた女の子たちはみなお嬢さん育ちで、おっとりしていて、いい意味でも悪い意味でもがつがつしたところがなかった。ストレートになんでも思ったことを言い、自分の欲望に忠実で、いい意味でも悪い意味でもがつがつしたところのあるチエコは、柴には新鮮でまぶしかった。
 チエコはどんどん柴の地図を広げていった。鎌倉や箱根や京都や金沢や、井の頭線界隈をちまちま移動するだけだった柴の日々にダイナミックな(と柴には思えた)長距離移動を持ち込んだ。地図が増えていくのといっしょに、あちこちの景色を切り貼りしたフォトアルバムも増えた。それから新しい靴も。
 なるべく自分の手の届く範囲で、ちいさく暮らしていたいと柴は思っていた。幼少期に両親に連れられあちこち旅していたからなのか、もともとそういう性質の人間だったのかはわからないが、できることならひとところに留まっ

ざ高いお金出して旅行してる気すらする」
 早口にまくしたてながら、チエコはまったく物怖じしない様子で石畳の道を歩いていった。おそらく彼女なら、ごみごみしたアジアの喧騒でも、マンハッタンのど真ん中でも、変わらない足取りでずんずん進んでいくのだろう。その鮮やかなイメージに、なにかまぶしい気持ちをおぼえて、柴はそっと目を細めた。
「そりゃ柴は英語べらべらだもんね。子どものころから海外慣れてるし。なんちゅーいやみなやつ。いっぺん英語も通じないような辺境の地に行ってきなよ。そしたらあたしの言ってること、ちょっとは理解できると思うよ」
 そうでもないんだけどな、と思いながら柴はなにも言わなかった。わざわざ辺境の地に行かなくともチエコのその感覚はもう理解できていた。話が噛み合わない、ひとりよがりに思い込む、そのめんどくささも含めて、チエコをいとおしいと思った。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

オリーブ

 

12

していたドイツ風のパンが売りのベーカリーとは置いてあるパンの種類も味もなにもかもがちがっていたが、これはこれで悪くない。中でも一個百三十円のコロッケパンが気に入って、週の半分はこれで夕飯にしている――なんてことを人に話すとずいぶん驚かれるのだが、柴はたくさん食べるほうではないし、パンさえあればそれでかまわないのだ。
 あとは小さくてもいいから古本屋があればいいのだけれど。
 古本屋の楽しみは、新書店の楽しみとはぜんぜんちがう。そこになにがあるのかわからない。だからドキドキする。うきうきわくわくする。なにも見つからなくたっていい。古本屋に行く、という行為そのものが好きなのだ。  そんなことをふとした拍子にこぼしたら、
「名古屋で古本っていったらやっぱり鶴舞ですね。古本街っていってもしょぼいですけど。ほんともう神保町とかにくらべたらしょぼしょぼですよう――って、あたし神保

て、よく慣れ親しんだ町がすこしずつ変化していく様子にいちいちはっとしたり、驚いたり、青臭い感傷をおぼえたり、そんなふうに暮らしていたかった。日記のように撮りためた写真をくりかえしくりかえし眺めているだけで終わってしまうような、そんな人生でいいと思っていた。
 チエコに出会って変わった。旅に出る理由ができた。世界中の街を、チエコはどんなふうに歩くのか、それを見てみたくなった。
 それにしたって、まさか名古屋で暮らすことになるなんて思いもよらなかったのだが。
 柴が新しく暮らしはじめた猫ノ池町には古い商店街があった。古い喫茶店があり、安くてうまい定食屋があり、そこそこに大きな気持ちのいい公園があった。駅前には二階建ての書店(ただし新書店)があり、彼の職場にもなっている。肝心のパン屋さんは昔ながらの日本のパン屋さんってかんじのが一軒。東京で暮らしていたころよく利用

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

オリーブ

 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

は名古屋の地図をつくっている真っ最中だ。おきにいりのセレクトショップも見つけたし、雑貨屋さんも見つけた。いいかんじの古本屋もいくつか。
 ミツコはチエコによく似ている。姉妹なのだからあたりまえといってしまえばそれまでだが、柴の地図をどんどん広げていく、その手ざわりがなにより似ていた。
 まずい、まずいなあと最初のうちは軽い調子で、ぽりぽり頭なんぞ掻きながらほんのり余裕すら漂わせていた柴だったが、このところはそうも言ってられなくなった。   これはいかん。早いとこどうにかせねばならん。
 ミツコはよく笑った。柴がなにか言うと、おかしそうに声をあげてきゃらきゃら笑ってくれた。カメラを向けるとちょっと上向いた鼻をさらに上に向けて、すましたような顔をしてみせた。そんなことをされると、もっとミツコを笑わせたい、もっとミツコを撮りたい、という気持ちがどうしようもなく沸き起こってきてしまうのだった。

町行ったことないんですけどね」
 と言ってミツコは照れくさそうにエヘへと笑った。その笑い方があんまりにかわいかったものだから、まいってしまった。
 これは困る。非常にまずい。
 というのは建前で、ほんとはそんなにまずくない。男だったらだれだってかわいい女の子が好きだ。問題があるとすればミツコがまだ十五歳であるということと、チエコの妹であるということ。
「そうだ、古本屋なら本山にもちらほらありますよ。あのへん学生街だから、けっこうかわいい雑貨屋さんとかカフェなんかもあったりして。矢野さん今度いつ休み? あたし案内するからいっしょに行きましょうよ。おいしいタルト屋さんがあるんです」
 まずい、まずいなあと思いながらも、ずるずる引きずられるようにミツコとふたりであちこちに出かけ、現在、柴

オリーブ

11

 

「矢野さんどうしたの? ぼんやりして」
 これはいかん、と思いながら首からぶらさげたカメラをかまえ、木漏れ日の少女を映す。麦わら帽子に白い木綿のワンピース。軽いめまい。ちょっとできすぎだろう。

 柴の勤める星山書店は、東海地方を中心に支店を構える大型書店である。
 書店の仕事は重労働だ。開店一時間前に出勤し、制服のポロシャツとエプロンに着替えたら、嵐のような品出し作業が待っている。入口にうず高く積まれた本や雑誌の山を黙々と、ただ黙々と崩していく。水分と油分を紙に吸われて手はがさがさになるし、なにより腰にずんとくる。正午前にはもうすでに、従業員すべての顔に深い疲労の色がにじんでいる。
 いつかカフェを開こうと貯めていたお金もあったし、名古屋にやってきた当初お世話になっていたおじさん(とい

 最近ではしかめつらしか見てないけれど、つきあいはじめたばかりのころのチエコもそうだった。笑った顔が見たくて、柴はいくらでも道化になれた。いまでは、「っていうかさむい。普通にしてたほうがよっぽどおもしろいんだけど。自分が天然だって、もしかしてまだ気づいてないの?」という手厳しい反応がかえってくるだけだ。柴の一挙一動に、チエコはいちいちキッとなってムッとなってギャッとなる。
「矢野さーん、はやくはやく」
 数歩先を歩くミツコが柴をふりかえって、ぴょんと跳ねる。
 並木が涼しげな影を落とす久屋公園をふたりで歩きながら、チエコはどんなふうにここを歩くのだろうと考えてみる。けれど、ある一点を越えたところでそのイメージは陽炎に揺らぎ、スライドするように目の前のミツコに重なる。

10

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

オリーブ