夏休みがおしえてくれる  |  davinci

小説を思いつき、その作中の小説家・ナカガワが書く小説として小説のなかに小説の連載をはじめ、その小説内小説と小説のなかの現実の世界が「フジタエリコ」さんの手紙を媒介にして、すこしずつそのふたつの世界がリンクしてくるというような話をつくりあげてしまったのであるが、あくまで書いているうちにそうなってしまったのであって(もちろん、最初からまったくなんにも考えていなかったわけはなく、ある程度の構想は構築していたわけですが)、べつに『朝のガスパール』や先ほど名を挙げた『伊勢物語』なんかを意識して、この小説を書きはじめたわけではない。じゃあ、なぜいまこんなことを書いているのかというと、すこし前のページを読みかえしてもらえればすぐに判明することなんだけども、今回ぼくの手元に送られてきた二人のフジタエリコさんからの手紙の最初に封を切ったほうの手紙を読み、その内容に感化され、そのときに「そういえば『朝のガスパール』って小説があったよ

な」なんてことを思いだしたからなのであるが、思いだしただけに留まらずさっそく読み直してみたら、作中に投書してきた人のなかの一人として「調布市の福永信さん」という名前が挙がっていたりするのを発見して、これってあの『アクロバット前夜』の福永信? なんて本編の直接的な内容とは関係のないことで一人ちょっと盛り上がってしまったのであった。
 と、長々と書いてきましたが、「え、ほんで、それがどうしたの?」なんていうふうにつっこまれたりすると困ってしまうというか、べつにどうもしませんよ、と開き直ってみたりするのが関の山であるのだけれど、まあ簡単にいうと(さっきから何度もいってるけど)なかなかおもしろい手紙でしたということで、普通のファンレターかどうかということはさておき、ご本人もいっておられるようにその内容に悪意は感じられず、どちらかというと好意的だし、いずれにしてもぼくの作品を読んでくれた読者の方に

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 こういった手紙を送っていいものかどうか、けっこう逡巡しました。でも、迷っている時点でけっきょく手紙を送ってしまうことになるんだろうなと以前から思っており、変な言い方ですが、自分のその予想どおり、いまこうして手紙を書かせていただいております。
 それで、わたしが中川さんに手紙を送らせていただいたのは、もちろん中川さんの小説を読んだからなのですが、読んでみてわたしは小説に登場する「フジタエリコ」さんは、わたしじゃないのか?! と思ったことが手紙をお送りするいちばんの要因となりました。わたしはこれまでに小説のなかの「フジタエリコ」さんのように、中川さんに手紙を送ったことはないので、その「フジタエリコ」さんが中川さんに手紙を送った部分からわたしが「フジタエリコ」さんであると思ったわけではありません。小説のなかで「フジタエリコ」さんが作中に登場する主人公の小説家の方(=中川さん?)に手紙で、中川さんの処女作に出てくる「ヨシダさん」は自分のことじゃないのかというふう

はまちがいなく、素直に感謝しているというわけです。どうもありがとうございます。って、なに急に「です・ます」調になって、あらたまった感じにかしこまっとるねん。自分で自分につっこみながら、やっぱり日本の夏は暑いなあと感じながら、オムライスはどうしてあんなに人を魅了するんだろうなんてことを思いながら、ぼくは二通目の手紙に目を落とした。

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書くと、なんだか大袈裟な感じがしますね……)。すなわち、わたしは中川さんと面識がある人物であるということです。では、なぜバレたら困るのかといいますと、べつにやましいことがなにかあるわけではないのですが、やっぱり恥ずかしいといいますか、小説のなかで「フジタエリコ」さん(いまさらながらですが、「フジタエリコ」のあとに「さん」がついているのは、中川さんの小説のなかに出てくる「フジタエリコ」です。って、なんか変な文章ですね)がいっておられたようなことが要因となっていまして、実際にそのような手紙を中川さんが受けとられたのかどうかはわかりませんが、もしフィクションだとしても、あの「フジタエリコ」さんの心境というか、小説のなかでいっておられたことの内容はリアルだと思いました(なぜなら、現にいま中川さんにたいして仮名で手紙を送ろうとしているわたし自身が、おなじような気持ちになっているわけですから)。
 それで、どうして小説のなかの「フジタエリコ」さん

なことをいいますが、まさにその部分を読んだときに「あっ!」と思いました。なぜなら、中川さんの一作目の小説『POKKA POKKA』を読んだときに、わたしもまさしくそのように思ったからです。
 話が前後しますが、だから(という言い方も変ですが……)今回手紙を送るに際して、「フジタエリコ」という仮名をつかわせていただきました。仮名はなんでもよかったのですが、「なんでもいい」というのは難しいもので、なかなか名前をきめることができず、拝借するようなかたちで「フジタエリコ」名義にさせていただきました。なので、なにか嫌がらせをしてやろうとかではありませんので、仮名で手紙を送ったこと、さらにはその仮名に「フジタエリコ」をつかったことをおゆるしいただけると幸いです。
 そもそも、なぜ仮名にしたのかといいますと、簡単にいいますと、わたしの正体がバレてしまうからです(いま書いてみて、あらためて思ったのですが、こういうふうに

 

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が、わたしのことじゃないのかなんてことを思い、それを思うだけではなくこうして手紙に書いて、作者である中川さんに送っているのかといいますと、厳密にいいますと、なぜそのような行動をとったのか、その本当のところは自分でもよくわかっていません。こんなふうに書くとなんだか無責任のような気もしますし、申し訳なく思ったりもするのですが、自分でも明確な理由がわからないというのは本当のことで———といっても、まったくなんの理由もないわけでは、もちろんないわけですけど———半分以上は勢いで筆を走らせているような感じです……。
 それで、その理由のひとつなのですが、それは先ほどから何度も書いていますが、『POKKA POKKA』を読んだときに、小説の登場人物である「ヨシダさん」のモデルはわたしではないかと思ったということが大きいのですが、それだけでは今回のような行動はとっていなかったと思います。現に『POKKA POKKA』読了後にそのような手紙を送ったりはしませんでしたし、それをなぜ

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今回にかぎって行動に移したのかといいますと、現在連載中の中川さんの作品を読み、そこに登場する「フジタエリコ」さんという人物が、主人公であるところの小説家の方(=中川さん?)に「『POKKA POKKA』のヨシダさんはわたしのことじゃないですか?」みたいな内容の手紙を送っているのを読んだということが大きく影響しています。こういうふうに書きますと、中川さんというか作品のせいにしてしまっているような感じですが、この小説を読んだときは本当に驚きました。だって、わたしが『POKKA POKKA』を読み終えたときに感じていたことを、作中に出てくる「フジタエリコ」さんがほとんどそのまま作者に手紙で書き送っているんですから。
 わたしは連載中の中川さんの作品を読みながら、これはどういうことなんだろう? と考えました。本当に中川さんのもとに小説のなかの「フジタエリコ」さんみたいな方から、仮名で同様の内容の手紙が送られてきたのか(もしそうだとすると、『POKKA POKKA』を読んで、

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わたしとおなじようなことを思った人がすくなくとも一人はいるということになりますが、そのこと自体がすでに大きな驚きだとわたしは思いました)、それとも、わたしが『POKKA POKKA』を読んで感じたことというか、その感想を中川さんがなんらかのルートで耳に入れられ(わたしが直接中川さんに話したという事実はありませんので)、それをもとに中川さんが創作されたのか、それともいま挙げたようなこととはいっさい関係なく、全部が全部中川さんの創作なのか(もしそうだったとしたら、それはそれで大きな驚きですが……)、いったいどのようにして今回の小説がつくられていったのかなと思い、考えさせられました。でも、だからといって、わたしが一人であれこれと考えたところで答えが出るわけではなく、どうしよう、どうしよう、となんだかわけもなくひとりでそわそわしていたときに出てきたのが、小説のなかの「フジタエリコ」さんとおなじように、中川さんに手紙を送るという方法でした。

 いざ手紙を書こうと思ったときに本名で送るのはなんだかいろいろ差しさわりがあるように思い(なんだか卑怯な感じで、すみません)、「フジタエリコ」さんとおなじように仮名でいこうと思い立ったんですけど、いざ仮名を考えてみると、なかなか出てこないもんですね(中川さんは小説を書くときに、登場人物の名前はどうやって考えているのですか? 今回、仮名ひとつ考えるのでも大変なことなんだということを痛感し、あらためて小説家の方はすごいなと思ったりしました)。それで、どうしようかなあと頭を絞っていたときに思いついたのが、「フジタエリコ」という名前で送ってみてはどうだろうかということでした。
 失礼かなとも思いましたし、あえて「フジタエリコ」と名のることにより、なにかしらの意図のある手紙だと警戒されたりする恐れもあるかもしれないということを考えたりもしましたが、だからといってなにかすぐに適当な名前

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が思いうかんでくるような感じでもありませんでしたので、しょうがなくというと言い訳がましいですが、説明すればわかってくださるだろうなんて都合のいいように考え、このような仮名で中川さん宛に手紙を書かせていただきました。
 わたしは『POKKA POKKA』を読んで「ヨシダさん」がわたしのことではないか? と思ったわけですが、そのことが事実なのかどうかということはひとまずおいておくとしまして、わたし自身は自分のことのように読めてしまい、なんだかわたし自身が中川さんと話をしてい
るような錯覚に陥ってしまいました。自分の知りあいの方が書く小説を読むとこんな感じになるんだって、なんだかびっくりするような体験でした。
 最初のほうにも書きましたが、どうしてこのような手紙をお送りしたのか、その厳密な理由は自分でもよくわかっていないんですけど、その理由のひとつとして「ヨシダ

 

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さん」がわたしのことであるかもしれないと思ったということを挙げましたが、あえてもうひとつの理由を挙げると、中川さんに聞いていただきたいことがあったからなんです。いま「中川さんに」と書きましたが、こういう言い方は失礼かとも思いますが、厳密にいいますと中川さんでなくても、自分じゃない誰かに話を聞いてほしかったんです(もちろん、その「自分じゃない誰か」が中川さんであれば、すごくうれしいことはたしかです)。
 話の内容はまったく個人的なことなのですが、最近つくづく思うことがあるんですよ、ほんとに、まともな人間ってすくないなって。善人ぶったことをいっている人に限って相手の気持ちをぜんぜん考えていなかったり、あの無頓着ぶりには憎悪すら感じます。人を裏切るということは、本当に残酷なことですよね。
 と、ここまで書いておいて、いまさらのようにいいますが、抽象的なお話ですみません。ただの愚痴みたいに

なってますね。でも、具体的には書けないんです。それだったらわざわざ書いて寄こすなとお思いになられるかもしれませんが、わたしとしては、いま思っていたことを文字に書き表し、誰かに読んでもらえると思っただけでも、だいぶん気分的に楽になりました。でも、なんのことだかわからない文章を読んでいただき、中川さんには申し訳ないと思っています。
 なんだか意味のないことばかり書きつらねているような気がしてきましたが、だけど世の中の大半のことは意味のないことではないのでしょうか? すみません、またわけのわからないことをいってしまって。いずれにしても中川さんの小説は、楽しく読ませていただいています。最後がどのようになるのかという興味もありますし、また次回作にも期待しています。ご執筆、がんばってください。
                                フジタ エリコ

 いろんな意味で不思議な手紙だったが、とくに最後のところはなにをいわんとしてるのかというか、どうしていきなりこんなことを書きだしたのか、ぼくにはよくわからなかった。べつにわかりたくもなかったけど、でも、なんとなく気にはなった。
 そもそも、この二通目のフジタエリコさんは、ぼくの知りあいであることをほのめかしているが、本当にそうなのであろうか? もしそうだとすると、いったい誰なのであろうか? 適当な顔を思いうかべてみようとしたが、よくわからない。というか、わかるわけがないわけで、こんな奇特な手紙を送ってくる人をなんの手がかりもなしに特定できるわけがないではないか。んで、もしかしたらというか、その可能性が高いように思われるんだけど、この手紙のなかに書かれてあることはこの手紙を書いた人の一〇〇パーセント妄想かもしれないし。もしそうだったとしたら、それこそこちらは送り主の正体なんてわかりようがない。

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 いずれにしても、変な手紙が二通も来た。しかも、差出人の名前が両方とも「フジタエリコ」だし。読者から小説家に宛てて変な手紙が送られてくるという、あんな小説を連載したことが呼び水となって、これはええわい、ここはひとつこの小説に出てくるフジタエリコさんを参考にして、おんなじような手紙を送ったろかしらん? なんてことを思う人が出現し、思うだけでなく実際に手紙を送ってよこしてきたりしたのであろうか。それは多分にありえることであろう。実際に二人の「フジタエリコ」さんも、多少の差こそあれ、ぼくの小説の内容に感化されて、このような手紙を書いたことをそれとなく記していた。
 それは、まあいいとしよう。このような手紙が来てもべつに嫌な思いをするわけではなく、読者からの一種のレスポンスとして、むしろうれしいくらいだ。しかしながら、こういう手紙もあってもいいけど、「おもしろかったです」「ファンになりました」みたいな普通のファンレターもあっていいように思ったりするのであるが(そもそも

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

二人ともファンレターというには異様に文字数が多い。これもぼくの小説の踏襲なのかもしれないけど……)、それは一切ない。なんででしょ?……と嘆いていたのもいまは昔、実はこの連載の第七回にも書いたように、普通のというか、がんばってください、大好きですみたいなお手紙も数か月前にいただいた。なんてことを書くと、小説は虚実混合したものであり、いくら嘘を本当のことのように書いてもいいからといって、そのような見栄を張ったような嘘、もしくは妄想はどうかと思いますよ、中川さん。とつっこみのひとつも入れてくる人があるかもしらんが、これは本当のことなんだからしょうがなくて、なんならその全文を引用してあげようかしらんとちょっと思ったりしたけど、やっぱりそれはちょっとと思ったりしただけであって、実際にはやらないでおく。なんでかというと、あくまでもその「ファンからの手紙」はぼくの頭のなかにだけある妄想の産物で、引用するもなにもその原本がないからなのかというとそんなことはなくて、ちゃんと手元にその