夏休みがおしえてくれる  |  davinci

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

加え、ソフトウェアの機能を向上させていくという「オープンソース」の概念です。もちろん、今回の中川さんの小説の構造がそっくりそのままオープンソースの概念と連動するというわけでなく、むしろ細かいところを見ていくとちがったところのほうが多いような気もしますが、概(おおむ)ねといいますか、ニュアンスとしてなんとなく似てるんじゃないかとわたしは思いました(ちなみに書いておきますと、わたしはソフトウェアを開発するSEの仕事をしています)。
 作者である中川さんのもとに、仮に差出人の名前がフジタエリコでなくてもいいんですけど、今回の小説のなかで紹介されたような手紙が実際に届いたのかどうかという疑問はあるのですが、仮に誰かから送られてきたものと仮定して、その(小説の)外部からのものを小説に反映していけば、小説自体になにかしらの新しい動きが出るんじゃないかなとか思いまして……。今回の作品の場合、その外部

 小説の途中から、フジタエリコさんから届いた手紙の内容を主人公の男性が小説(=小説内の小説)のなかに取り入れるじゃないですか。それで、それを読んだうえで書かれたフジタさんからの手紙が小説に引用(?)され、その書かれたフジタさんの手紙の内容がまた「小説内の小説」のなかに反映され、それを読んだフジタさんがまた主人公に手紙を書いて……。
 この一連の流れを読んで、わたしは先ほどいった「終わらないような、ずっとつづいていくような小説」の雰囲気を感じたんですけど(実際にどこまでもつづいていくかどうかは別としまして)、それと同時に小説の可能性というようなことも考えました(なんか、えらそうな物言いになってしまって、すみません)。それはどういうことなのかと申しますと、わたしの頭にまずうかんだのが、ソフトウェアのコードソースをネット上に公開し、その公開されたコードソースをもとに不特定多数の人が自由に改良を

 

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からの刺激はフジタエリコさんからの手紙だけでしたが、これが多くの人たちからの手紙などを小説に反映して、作品を展開していけば、まさにソフトウェアのオープンソースみたいな感じで、ひとつの作品をつくっていくことになるんじゃないかと思ったんです。それで、不特定多数の人が果てしなく手を加えていくことによりソフトウェアがどこまでも改良を重ねられていくように、小説のなかにもそのような外部の力を取り入れることにより、それこそ「終わらないような、ずっとつづいていくような小説」ができるんじゃないのかなと思ったりしたというわけなんです。
 そこでわたしが思いついたのが、その企てにわたしも参加してみよう! ということでした。すなわち、「これが多くの人たちからの手紙などを小説に反映して、作品を展開していけば、まさにソフトウェアのオープンソースみたいな感じで、ひとつの作品をつくっていくことになるんじゃないかと思ったんです」とすぐ前に書きましたが、その「多くの人たち」のなかのひとりになってやろうと

 

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思ったのです。実際にフジタエリコさんからの手紙が届いているのか、そしてそれをそのまま転用しているのか、もしくはそれを下敷きにしてなにかしらの手をくわえられて書かれているのか、それとも一から十まで、そのすべてが中川さんの創作なのか、その本当のところはわたしは知りようがありませんが、そのうちのどれであるかということはひとまずおいておくとしまして、すくなくともいまわたしが中川さんに手紙を書いて送っているという事実は動かしようがないわけでして、それを中川さんが小説のなかで取りあげてくださったら(それを期待するところもあってといいますか、積極的に期待して、ときおり失礼と思われるような箇所もあったりするこのような手紙を中川さんにお送りしているわけですけど……)、また小説に新たな局面とまではいわないまでも、小説のなかになにかしらの化学反応が起こることになるのではないかなと愚考しました結果、このような手紙をお送りしているというわけです。と、こんなふうに書いたりしますと、わたしからの手紙が

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突っ走らせていただきます。ご了承ください)。
 それで、わたしのなかでそのような企みがあったので、あえて名前を「フジタエリコ」としたわけなんです(と書いて、いまさらのように思ったのですが、自分でフジタエリコと名のっておきながら、小説のなかに出てくる「フジタエリコ」のことを「さん付」で呼んでいるのはなんか変というか、ちょっとおかしな感じですよね)。
 最初に「フジタエリコ」名義にした理由について「それをこと細かに説明していきますと余計にややこしくなる」なんてことを書きましたが、いろいろ書いているうちに説明できちゃいましたね。って、なんか他人事みたいな書き方になりましたね、すみません。
 現在連載中の中川さんの小説がいつまでつづくのかはわかりませんが、もし今後もしばらくつづくのであれば、そして万が一このわたしの手紙が小説内で取り上げられるのならば、それを読んだうえで、またわたしのほうから中川さんに宛てて、お手紙を差しあげようと思っております

中川さんの小説の活力となるというか、なにか小説の新展開の力添えとなるべくわたしが協力したような感じにおこがましくも聞えてしまうかもしれないですが、もちろんそんなことはなくて、先ほどいいましたオープンソースの概念に目がいったときに、うわ! とひとりで色めきたってしまっただけのことでして、どうせならその企てにわたしも参加してみたい! と自分の勘ちがいであるなんてことを顧みることもなく、中川さんに手紙をお送りしたというわけです(だって、自分の書いた手紙が、ある作家の方の作品のなかに掲載されたり、それが元ネタとなって創作が行われたりしたら、普通にすごいじゃないですか。絶対に楽しいとも思いますし。って、掲載されることを前提に話をしたりして、すみません。もちろん、実際にどうなるかはわかりませんし、すべては中川さんの判断にゆだねられるわけですが、ここまで長々と書いてきていまさらそこの根本のところで悩んだりするのは本末転倒といいますか、詮のないことですので、そのことには拘泥せずにこのまま

 

 残念ながらというか、しょうがなくというか、フジタエリコさんの意に反して連載は今回でお終いです。というか、彼女からの手紙があったからこそ本来ならば前回アップされた分で連載が終わっていたところをいまこうしてそのつづきを書いているのだから、ある意味彼女の企ては成功しているのかもしれない。
 てか、全文載せちゃいましたよ。いいですよね? って、これはこの手紙を送ってくださった差出人の「フジタエリコ」さんに向かっていっているんだけど、いいですよね? って、いちおう礼儀上尋ねたりしたけど、手紙を読むかぎり小説に連動させるというか、手紙の内容を掲載されることを切に願っておられるような感じだし、ぼくはそれを実践したまでのことで、いまさら「やっぱり困ります」とかいわれても困る。困るというか、彼女の望みどおり、ぼくの小説に手紙の全文が掲載されたことを彼女が知るのはネット上にアップされたのを見たときであって、

(あくまで現状では仮定の話で、しかも、そんなつもりはまったくないんですけど、結果的になんかまた若干上から目線っぽくなってしまって、すみません)。もしほんとにそうなったとしたら、わたしとおんなじように手紙を送ってくる人がけっこう増えるんじゃないかなとも思うんです。もしかなりの数が来たとすれば、そのすべてを小説に反映するのは難しいかもしれませんが、それこそオープンソースのような感じで、よりすぐれた内容のものだけを取り上げ、小説に吸収していくなんてことができるかもしれませんね。
 いずれにしても、連載中の小説の今後の展開、さらには次回作と、これからの中川さんのご活躍に期待しています。
                                 フジタ エリコ

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されているわけである(紙媒体である本誌での連載であればこうはうまいこと行かなかったように思うんだけど、印刷のいらないネット媒体ということで、比較的スムーズにやりとりを進めることができました)。
 で、具体的にどこらあたりがおもしろいと感じたのかというと、全体的な感じなんてことをいうと元も子もないので、あえてひとつ指摘するとオープンソースの概念を小説に取り組めないかといっているところが、なかなか興味深かった。この手紙の送り主の方が、『朝のガスパール』という筒井康隆が当時(九〇年代前半)全盛期であったパソコン通信を通じて読者とやりとりをし、それをそのまま作品のなかに取り組み、物語の方向性をきめていったという小説の存在を知ったうえで発言しているのかどうかはわからんが、彼女(かどうか、すなわち手紙の送り手の性別が実際に女性であるかどうか、その実際のところはわかんないけど、便宜上「彼女」としておきます)がオープン

その時点でなにをいわれたところでもうどうしようもないわけなんだけどね。
 で、この「フジタエリコ」さんは手紙の最初に「これはファンレターです」と断っているが、一読するかぎり、そんなことばは信用できない。てゆーか、わざわざ自分で「これはファンレターです」とかいってる時点で普通のファンレターではない。
 しかしながら、だからといってぼくは気分を害したりしたのかというとそんなことはなくて、どちらかというとおもしろく読ませていただいたという感じ(なんとなく微妙な感じであることもたしかなので、若干歯切れが悪くなるのは了承していただきたい)。そう思うからこそ、本来ならば前回アップ分で無事連載が終わっていたところを編集部にかけあい、担当さんと電話での打ちあわせを重ね(というほど大げさなものではなかったけど)、ぼく自身急遽新しい原稿に着手して大急ぎで仕上げ、いまこうして掲載

 

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ソースの概念に着目していることにぼくは着目した。
 何年か前、グーグル関連の書籍を読んでいたときにオープンソースの概念にふれ、ある企業が開発したソースを外に向けて発表するのではなく、独自で、その会社のなかだけで改良を加えていくのではなく(これはなにもダメなことというか、問題があるやり方というわけではなく、従来まではこれがスタンダードというか、あたりまえとされた方法だ)、インターネットを介して全体に開示されたものが不特定多数の人によってどんどん改良されていくという(そのスピードがまた早い!)そのシステムに、ぼくはすごく興味をおぼえた。で、これをなんとか小説の方法論として応用できないものであろうかなんてことを思ったりもした。けっきょく、そのときは具体的な答えを導きだすことはできなかったわけだけど、そうなってくるとやっぱりネットを媒体とした作品とかになってくるのかな? なんてことを漠然と思ったりしたのであったが、そんなことを

漠然と思ったのと同時にぼくの頭のなかに漠然と思いうかびあがっていたのが『伊勢物語』で、どうしてなのかというと『伊勢物語』は平安時代初期に作品がつくられて以降、各時代のさまざまな人によって独自の注釈が加えられ、いろいろな「書き換え」が行われてきたという経緯があるからで、手っ取り早くウィキペディアで簡潔にまとめられているところを引用すると「中世以降おびただしい数の注釈書が書かれ、それぞれ独自の伊勢物語理解を展開し、それが能『井筒』などの典拠となった。近世以降は、『仁勢物語』(にせものがたり)をはじめとする多くのパロディ作品の元となり、現代でも『江勢物語』(えせものがたり、清水義範著)といった模倣が生まれている」ということで、まさにひとつの物語が元となり、そこからさまざまな人が加わって、数多くの亜流が発生していっているというか、よくいえばべつの新しい物語が動きだしていっている。『伊勢物語』の成立は平安時代初期のこと

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てそのように思ったようなニュアンスを与えてしまうかもしれないけど、実はけっこう前からそういったことを考えていて———なんてことをいうと、嘘つけよ、とってつけたかのようにいいやがって、と思われる方がいるかもしらんが、本当に前々からそんなことを考えていたのであって、そんなことを考えていたことの結果としてこの『夏休みがおしえてくれる』という小説を書きだしたのであった。そしたら、今回フジタエリコさんが———って、このフジタエリコさんは今回、作中の作家ナカガワにではなくて、この小説を書いている中川充(と本名で書いたところで、作中に出てきてる時点で虚構的存在になってしまうわけですが)に宛てて手紙を書き送ってきた、二人のフジタエリコさんのうちの最初に封を切ったほうのフジタエリコさん(って、ややこしいな。自分で書いていていうのもなんだけど)が、似たようなニュアンスのことを書き送ってきてくれたので、なんかおもしろいなあと思ったのだった。

だから、現代の『江勢物語』までをふくめると約千年にわたって「書き換え」が行われてきたことになるが、その歴史的な時間の変遷から生まれてきた多様性や深みを現代で、ある特定の一作品だけでおなじように表現することは無理だけど、さきほど取り上げた(ネットを介した)オープンソース的な手法を用いれば、同時多発的に、千年という歴史的時間に匹敵するとまではいわないまでも、さまざまな雑多なやりとり(?)が可能となり、それとはまたちがった面からのアプローチで多様性や流動性みたいなものを生みだせるのではないのかしらん、なんてことを考えたのであった。
 んで、オープンソースやらネットを使った媒体やらいろいろといってきたけど、そうじゃなくって「手紙」という、ある種古典的な方法でも、なにかそういった多元的な小説(?)世界を構築することが可能なんじゃないかとぼくは思い———なんていうことを書くと、いまぼくが初め

 

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 んで、先ほど筒井康隆の『朝のガスパール』の話がちょこっと出たけど、この小説の連載開始にあたり、「毎日、ほんの少しずつ虚構が展開していき、それを毎日読者が読む新聞連載という特殊性を生かして、雑誌連載などよりはずっと反響が大きいと聞くその新聞読者の意見を小説に投影させ、それに沿って展開をおしすすめたいと思う」と筒井康隆本人が書いているように、同作品では一日一話(原稿用紙三枚)という新聞連載小説の特性を活かした試みにチャレンジし、虚構と現実の壁を破ることを目的に、その日の掲載分を読んだ読者からの投書やASAHIネットの掲示板に書き込まれた内容が作品世界に反映させられていったわけだが、これはご本人もいっておられるように新聞連載小説ならではの試みだ。しかしながら、小説のなかに登場する作者を模した小説家・櫟沢(くぬぎざわ)が小説内で軽くふれていたように、そもそも新聞連載なんて大御所クラスの小説家にしか依頼がこない。仮になにかの

 

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まちがいで依頼が来たとしても、おなじようなことをしては二番煎じ、サル真似、年いってからの立川談志と山田風太郎の顔って似てると思うんですけど、みたいなことになってしまうのであって———というか、いまの場合、立川談志と山田風太郎の顔って似てると思うとかどうとかいうことはなんの関係もないんだけど、いずれにしても後塵を拝することはまちがいない。だったら、新聞連載小説じゃないところで、まったくちがった角度から読者とのやりとりを展開し、それをなんらかの有効的なかたちで小説に取り入れられないもんかしらと思い、構想を練って連載をスタートさせたというのがこの『夏休みがおしえてくれる』という小説なわけです。
 というのは嘘で、そんなことはこの小説を書きだしたときにこれっぽっちも思っていなかった。ただ読者から来た一通の手紙をもとに、作者である中川充を模した小説家「ナカガワ」に読者から一通の手紙を送られてくるという