夏休みがおしえてくれる  |  davinci

第12回

 
中川 充

 
 
 

 
Mitsuru Nakagawa

12

 
 
 
 
 
中川 充

 
 
 
 
 
Mitsuru Nakagawa

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

第1回から読む

ネット上の読者投票を経てデビューした作家・ナカガワのもとに、一通のファンレター(?)が届いて……

 
 
 
 

 
夏休みがおしえてくれる

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

夏休みがおしえてくれる

 
 
 
 
 
 
 
 
       第12回
      <最終回>

            §§

 当初の予定では小説は終わっており、これ以降の段落はないはずであった。んじゃ、なんで書いているんですか?ということになるわけだが、その理由をいまから書いていこうと思っていたりするんだけど、小説というのはその創作法は作家さんによっていろいろなわけで、ぼくの場合は登場人物とある程度の流れをきめたらとりあえず小説を書きはじめ(すなわち、細部まできっちりと構成するわけではない。しかしながら、今回の小説では「純粋に吐き出したいものを書き出しただけ」ではないことをもうすこしわかりやすいかたちで提示するために、いつもよりかはきちっとプロットを組んだわけですが)、あとは小説の動きに合わせるようにというか、書きながら小説自体が自ずと動きだすのを待っているような感じであるわけなんだけど、この「小説が自ずと動きだす」ってことがけっこう

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大事で、というか動きださないとむしろダメというか、なんにしてもぼくが小説を書くときはその連続する作業のなかで、いまいっている「小説が自ずと動きだす」瞬間をつかまえようと文章を重ねていっているわけなんだけども、今回の作品にかんしても、まったく自分が予想もしなかったような方向に小説が動きだしてしまうことになってしまった(当初は予定していなかった章段をつけくわえてしまうくらいに)。
 っていうか、その「小説が自ずと動きだす」という状態は本来曖昧なものというか、具体的にこの章のここのところからそれまでの流れと明らかにちがってきて、小説が動きはじめていますと明確に答えられるようなものではないのであるが、今回の場合はある外的な力———というか物質によってその「動き」が生みだされたわけで、これのせいでこうなってしまったんです、と具体的にその原因を指摘することができる。

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 二通の手紙が来たのだ。
 えっと、ぼくはある雑誌(途中からウェブ・サイト)に小説を連載していたのだけれど、それは小説家であるところの主人公「ぼく」が雑誌の担当編集者さんと打ちあわせをするところからはじまり、その最初の場面で主人公は担当さんから手紙を渡される。それはフジタエリコという仮名の女性(かどうか、その実際のところはわかんないけど、とりあえず便宜上女性としておく)からのもので、内容も普通のファンレターとはちょっとちがった感じだったりして、その後も彼女からは何通も手紙がやってくるわけなんだけども、そのフジタエリコからの手紙というものが小説のひとつの軸となっている。んで、もう一方の軸が、その小説家であるところの「ぼく」が雑誌に連載するという態で小説内に展開されるもうひとつの小説で、作中ではその「ぼく」の書く小説のなかにフジタエリコからの手紙の内容が反映されていき、そこでふたつの軸が合わさって

いったりもしながら小説は進んでいくわけなんだけど、まあなんやかんやといろいろあって、最後は主人公が夏休みを利用して沖縄旅行に行く直前に、けっきょくフジタエリコって誰なんやろなあ? とか思ったりしながら、目の前の夏休みにうかれているところで小説は終了する。
 んで、その最終回がサイトにアップされたのが先月二十六日のことで、最終回の原稿を書き上げたのはそこからちょうど一か月ほど前のことになるのであるが、その原稿の最終チェックをし、朱を入れたゲラをファックスで送った翌々日くらいに、編集部経由で二通の封筒が届いた。封筒を裏返してみると一通には差出人の名前がなく、もう一通には「フジタエリコ」という名前が書かれてあった。
 フジタエリコって! と思わず手紙の送り主につっこんでみたんだけど、とりあえずもう一通のほうも気になるで、なんなんですか? となかを開けてみると便箋が数枚入っており、誰からやねん? と取り急ぎ手紙を繰って

 
 
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 ちょっと考えてみる。
 いちおうというか、いうまでもなく「フジタエリコ」というのはぼくが考えだした架空の人物であり(そもそも、その小説のなかでさえ仮名なわけだし)、仮にぼくの元に今回の小説で書いたような読者の方からの手紙が届いていたとしても、その人をモデルにして作品に登場させた時点でフィクショナルな存在———すくなくとも実際の人物とは別個のものとなり、すなわちそれは架空の人物であるといってもいいと思うんだけど、架空の人物であるということは実際には存在してないということであって、こんなことをいっているとおまえはなにをわかりきったことをいっておるんだとお叱りを受けそうだが、そんな実存しないはずの「フジタエリコ」名義でいま手紙が届いているというのはどういうことかというと、いちばん可能性が高いのがぼくの小説を読んでくださった方のうちの誰かが悪戯で

いくと最後のところに著名がしてあって、こちらにもカタカナで「フジタエリコ」と記されてあった。
 一瞬、思考が停止する。
 五秒くらいの間があったあと、フジタエリコとフジタエリコから手紙がやってきた、ヤァ!ヤァ!ヤァ! なんてことを突発的に思ったのだけど、いま「フジタエリコとフジタエリコから手紙がやってきた」のあとに「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」をつけたのは、『ア・ハード・デイズ・ナイト』の邦題『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』を踏襲して調子にのってみたことの結果なんだけど、そんなことよりも耳寄りな情報をご提供すると、その邦題を考えたのは『シベリア超特急』シリーズでおなじみの水野晴郎です。って、そんなことはそれこそどうでもよくって、どうして「フジタエリコ」なんてふざけた名前の人から手紙が来るんだ。しかも、二通も! ってことが大きな問題なのである。

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手紙を書いて寄こしてきたということだ(しかも二名も!)。てか、それ以外にないんとちがいますか?
 いったい誰の仕業なのであろうか? と考えたところで答えが出てくるわけでもないので、とりあえずぼくは封筒に名前が記されてあるほうの手紙から読んでみることにした。

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 こんにちは。最初にいっておきますと、これはファンレターです。そもそも普通のファンレターというには枚数が多すぎるようにも思いますし、内容的にも「本当にファンレターか?」と疑問に思われるところがあるかもしれませんが(もし最後まで読んでいただければの話ですが)、これはファンレターです(こんなことをわざわざ断る必要性もないと思うんですけど、こちらになにかしらの悪意があってこのような手紙を送ったのではないことをあらかじめ明示しておきたく思いましたので、念のために書かせていただきました。自分でやっておきながら、こんなことをいうのもなんですが、そもそも名前が「フジタエリコ」名義なので、いろいろと勘ぐられたりもするかなと思ったりしましたので……)。
 それで、つぎに弁明(?)しなければいけないのがそのフジタエリコという名前を用いたことについてですが、先述しましたように悪意があってそのような名前をつかった

わけではありません。もちろん、ちょっとした悪戯心すらまったくなかったといったら嘘になりますが、中川さんのことを挑発したり、バカにしたりしようという意図のもと用いたのではないことを重ねて申し上げておきます。と、なんだかいやにかしこまった感じになってしまいましたが、どうして今回の中川さんの小説に出てきた「フジタエリコ」というその名前を用いたのかといいますと、厳密にいうと明確な意味はありません。だからといって、まったくなんの意味もないわけでもなく、あるといえばあるといえるんですけど、ただそれをこと細かに説明していきますと余計にややこしくなるといいますか……。まあ、わたしが文章にするのが下手なだけなんですけど、いずれにしても今回の中川さんの作品に感化されたといいますか、あの作品に刺激を受け、いろいろと考えさせられ、その一環としてこのような名前でこのような手紙を書いているということだけはまちがいのないところだと思います(なんだ

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か、わけのわからないことをいってすみません。意味不明だったら、ごめんなさい)。
 わたしは芸術的な才能が優れているとは思いませんし、実際に小説を書いたり音楽をつくったりすることもできないわけですが、もしそういう才能があったとすれば、わたしは終わらない小説であったり、終わらない歌をつくろうと努めていたと思います(すみません、仮定の話ばかりしまして)。それで、そういったものをわたしは実際につくることはできませんが、ひとりの読み手もしくは聴き手として、そういった感じの作品が出てくればおもしろいのになあと常々期待はしておりました。もちろん、小説であれ楽曲であれ、ひとつの作品が終わらないなんてことは実際には不可能なわけで(その作品がいつまでもつづくと仮定するならば、それが物理的に終了してしまうのは作者が死んだときであり、そうなるとその作品は「未完」として認知されることになってしまいますから)、ここでわたしの

 

いう「終わらない小説(歌)」というのは、厳密にいうと「終わらないような、ずっとつづいていくような小説(歌)」のことです。
 こんなことを書いてわたしはなにをいおうとしているのかといいますと、今回の中川さんの連載作品を読んで、そんな「終わらないような、ずっとつづいていくような小説」を書くためのヒントがあるように感じたからです(なんか上から目線ですみません)。
 具体的には、今回の小説は主人公が小説家で、その主人公が書いた小説が雑誌に掲載されるという設定で小説内に小説が展開されています。わたしがこの手紙を書いている時点では、その「小説内の小説」はそろそろ終わりを迎えそうな感じですが(全体の連載そのものはまだまだつづくのか、そうでないのか、わたしには知る由もございませんが……)、仮にその「小説内の小説」が終わったとしても、主人公の小説家がつぎの作品を書きはじめたという

設定にして、また小説内でべつの小説をスタートさせれば、いったん収束に向かったというか一区切りついた小説が、またつづいていくことになるなあなんてことをぼんやりと思いました。と、ここまで書いてみて、いま書いたようなことがわたしのいう「終わらないような、ずっとつづいていくような小説」のことなのかというとそうではなくて……。
 えっと、まったくもってそういうことではないのか? といいますとそんなこともないのですが、じゃあ、それがわたしのいいたかったことなのかというとやっぱりそれもちがう感じでして、今回の小説の主人公であるところの小説家が、小説のなかでつぎからつぎへと小説を書いていって、ずーっとずーっと小説がつづいていくっていうこともたしかにわたしの頭のなかに過ぎったことなんですけど、それよりも今回の中川さんの小説でわたしが興味深く思ったのはフジタエリコさんの存在なんです。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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