夏休みがおしえてくれる  |  davinci

 
Mitsuru Nakagawa

 
 
 

 
中川 充

第11回

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ネット上の読者投票を経てデビューした作家・ナカガワのもとに、一通のファンレター(?)が届いて……

 
 
 
 

 
 
 
 
 
中川 充

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 
 
 
 
 
Mitsuru Nakagawa

 
夏休みがおしえてくれる

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       第11回

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

夏休みがおしえてくれる

 

             §

 ウェブ上にアップされた最終回の文章を一通り読んだあと、いちばん最後のページに自分のプロフィールが出ているのをみつけ、なんとはなしに目をやった。いまあらためて見てみて、自分の誕生年は書かれているが誕生日は書かれていないことに気づく。で、あわてて本誌で連載していたときの号を持ってきて確認してみたのであるが、やはりプロフィールのところには誕生年だけで誕生日は書かれていない。いまさらなにをいっておるのだ、とつっこまれるかもしれんが、このときぼくの頭にうかんでいたのはフジタエリコさんのことで、彼女は以前送ってきた手紙のなかでぼくの誕生日が七月十七日であることを書いていた。んで、その論拠として「雑誌に載ってたプロフィールで確認しましたが」なんてことをいっておったのであるが、雑誌に誕生日なんて載っていないではないか。

 この事実からどういったことが導きだされるのかというと、彼女は以前からぼくの誕生日を知っているってことで、どこでそれを知ったのかというその可能性はいろいろとあるわけだけれど、とりあえず「ぼくの誕生日を知っている」というその事実から、彼女はぼくの知りあいである可能性が高いと思われる。えらいことずらよ、と突発的に『ドカベン』の殿馬の口調を真似してみたが、もちろん喜んだりうかれたりしているわけではない。
 フジタエリコさんはぼくの知りあいだったのであろうか? って、ほんとのところは現状では確認しようがないが、いまさっきもいったようにその可能性は高いと思われる。思われるというか、直接・間接はわからないけど、ぼくのまわりにいる人間であることはまちがいない(だって、公的な場で自分の生年月日は発表していないから———ということをいまあらためて頭のなかで確認してみたが、やはりそのような事実はなかった———雑誌や

ないではないか、向こうが勝手に手紙を送ってきてるだけなんだから。と、そこまで思ったときに、あ! とぼくはあることに気がついたというか、考えがおよんだ。
 フジタエリコ=柴田ではないのかという可能性についてだ。
 いったんその可能性を打ち消しはしたものの、ぼくの誕生日は知っているし、やつならそれくらい手の込んだことをやりかねん。なんてやつだ。愉快犯にもほどがある! といきりたち、激高してみたわけだが、べつに動かぬ証拠を手にしたわけでもなく、現時点でその正体を柴田であるときめつけてしまうのは危険だ、というか短絡的すぎる。
 フジタエリコという仮名をつかってぼくに手紙を送ってくる人物がいて、その人物はぼくの生年月日を知っている、さらにぼくのまわりの人間でフジタエリコのことを話したことがあるのは柴田だけ。これらのことが頭のなかにうかび、瞬間的にフジタエリコ=柴田と結びつけて

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

ネットなどの媒体で聞き知ったという可能性はないわけで、それを知っているということはやはり身近な存在であるということがいえるであろう。もしかして編集部に電話で問いあわせたりしたのかも? なんてことが一瞬頭を過ぎったが、電話で作家の生年月日を尋ねてくるやつなんてまずおらんであろうし、おったとしてその時点で不審がられるであろうし、そもそも編集部の人もぼくの誕生日はたぶん知らないから、仮にフジタさんが電話をかけていたとしてもそこからのルートで情報を得ることは不可能だ)。
 まったくその可能性を否定していたわけではないが、フジタエリコさんはどちらかというと知りあいではないと思っていた節はあったりして、それが覆されるとなるとショックというかちょっぴりとまどいをおぼえるところもあり、なんだかそわそわしてしまって、どうしようかなと思った。思ってすぐ、どうしようもなにもそもそもどうしようもないではないか、ていうかどうにかする必要性も

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しまったわけだが、かなり限られた可能性のなかから導きだされた回答であるといわねばならず、ていうか「かなり限られた」どころかいまの場合、その条件にあてはまるのは柴田しかおらず、この状況から真相を導きだそうと思ったらそら犯人は柴田になってしまうわけで、それをもって真実としてしまうのは理不尽であり、そんなことをしてしまうのはネロ、もしくはディオニス級の暴君ぶりであるといわねばならず、シーシュポス級に不条理なことだ。
 だからといって柴田の身の潔白が証明されたのかというと当然そんなことはなく、有力な容疑者であることには変わりがないわけで、今度電話したときにでも探りを入れてみるつもりだ。
 実際のところどうなのかはわからんが、もし仮にフジタエリコ=柴田だったら、ある意味ほっとするんだけどなあ。もしほんとにそうだったとすると、なんて悪戯をするんだと腹も立つし、なんともいいがたい微妙な心境になる

とは思うけど、意外性という観点からはそれほどびっくりさせられることもないし、犯人が柴田だとなんとなく納得もさせられるし、そもそも犯人がわかってすっきりできるということがなによりうれしい。逆にいうと、柴田がその張本人でなかったとしたら、手がかりはなんにもないから、真相は迷宮入りしてしまう。迷宮入りしないためにはこちらから連絡をとるか(そのつもりはいまのところまったくない)、もしくはフジタエリコさんが自分から正体を明かしてきてくれるかしないといけないのであるが、その可能性は低いように思われる……ていうか、フジタエリコさんが誰なのかわからんから当然どんな人物なのかもわからんわけで、正体を打ち明けてくれるかどうか、どのような行動に出るのか皆目わかんない。ただ、いつものパターンでいうと、ウェブにアップされてから一週間前後でフジタさんは手紙を送ってきてくれるので、そのつぎの手紙になにかしらのヒントがあるのかもしれない(あくまで、

 

手紙を送ってきてくれればの話だけど)。連載は今回が最終回だったし、もしかしたら一区切りついたところで正体を明かしてくれるなんてことも考えられなくはない。もしそうだったりしたら、ありがたいんだけどなあ。と、こんなふうにあれこれと思考をめぐらせたりしていると、フジタエリコさんの正体をつきとめることがいまのぼくの最重要事項のように思われるかもしれないけど実際はそんなことはなくて、もちろん気にはなっていることはたしかであり、殊にフジタエリコさんがぼくの生年月日を知っているということに気づいてからはいままで以上にその存在が気にかかるようになってはいたけど、いまはそれ以上に関心が向いていることがあって、それはなにかといいますと、一週間後に迫った沖縄旅行の存在であった。
 今回の作品は連載がはじまる前にいったん最後まで書き上げ、それをもとに毎月掲載されるぶんだけ手直ししていくという方法が取られたのであるが(フジタエリコさんの

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手紙の内容を小説に反映していくことを思いついて以降は、けっこうな割合で手を入れることになってしまったわけだが)、その作業も先月をもって無事に終了した。で、その連載期間中、ぼくは毎月の掲載分を手直しする以外のことはなにもしていなかったのかというともちろんそんなことはなくて、ライターとしての仕事もこなしていたし、次回作となる小説の原稿も並行して手がけていたわけだが、その作品も二か月ほど前に初稿が完成し、それを担当のSさんに読んでいただいたうえで打ちあわせを行い、話しあったことを反映させた原稿を先月送り届けたわけであって、いまはちょっと一息ついているところ。しかも夏場はライターのほうの仕事もびっくりするくらいにヒマになるということで、今年はここまでけっこうがんばったことだし、ここはひとつ夏休みでも取ったろかしらん、なんてことを企み、企んだだけじゃなくそれを実際に行動に移し、来週から沖縄旅行にくりだすというわけである。

思ってはいるが、だからといって、あれこれと考えたところでいまのところその答えを導きだすことはできず、すなわちあれこれと考えてもしょうがないということで、だからぼくはフジタエリコさんのことについてあれこれと考えることを一旦停止したわけであるが、もう数日したら届くであろう(確証はないが、たぶん届くはず)フジタエリコさんからの手紙をもって沖縄に飛び、晴れわたった青空とさわやかな空気のもとでそれを読みながら、ゆっくりと流れる時間のなかぼんやりとした頭で思考を働かせてみたら、ほっこりと真相が現れ出てくるかもしれん。……なんてことくらいは、漠然と考えているわけで、なるようになるやろというか、ゆっくりと夏休みを過ごしているあいだに答えが出てくるような気分になんだかなっていた。夏休みがその答えを教えてくれるんじゃないかなって、そんな他力本願な感じで。
 んなことをぼんやりと思いながら、手にしていた雑誌を

 

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 旅行といっても気ままな一人旅で、ある程度の予定は立てているが、往復の航空チケットと三日目までの宿を取ったこと以外の予定はいまのところ未定で、現地に行ってから段取りを組んでいこうって感じ。適当といえば適当なわけだが、だからといってやる気がないのかというと、むしろやる気は満々で、いよいよ一週間後に迫ってきたと思うとわくわくしてきて、うっほほーいと思わずアラレちゃん風に叫びたいような気持ちになったりもしたんだけど、そんなことをすると変態あつかいはまぬがれないであろうからもちろんしなくて、やー、うれしいな、と心中で満面の笑みをうかべるだけにとどめておいた。
 というわけで、いまはフジタエリコさんの正体よりも沖縄旅行のことで胸がいっぱいになっているわけなんだけど、フジタエリコさんのことは完全にどうでもええと思っているわけではなく、その真相がわかりさえすれば胸の内はすっきりするのになくらいのことは思っている。

床に置き、ゆっくりと立ち上がるとベランダに足を向けた。カーテンを開けると本格的な夏のはじまりを思わせる太陽が、いやに明るく輝く朝の空が目の前にひろがり、それにつられるように戸を開けて外に出る。クーラーを入れていた室内との温度差は圧倒的な感じだったけれどべつに不快感はなく、どちらかというとからっと晴れわたった気持ちのいい朝だった。というか、もうそろそろお昼に近いくらいの時間だったけど。
 普通に気持ちがよかったんだけど、沖縄ってこんなもんじゃぜんぜん太刀打ちできんくらいの快適さなんやろうなあと思うとなんだかまたうれしくなってきて、いまマンションの前の道を自転車でとおっていった見も知らぬおばちゃんに「こんにちはー」とベランダから大きな声であいさつしたろかなと思うくらいの勢いでテンションが上がってしまったわけなんだけど、もちろんそんなことはしなくて、やっぱり夏休みって楽しいなあと心のなかで思うだけ

にとどめた。んで、夏休みとかいうてるけど、もちろんそれは誰かに与えられた夏季休暇とかではなく、自分で夏休みと公言しているわけで———すなわち、いつから休んでいつから働きだすという、そのすべてのことをぼくは自分できめているわけで、それはぼくが人に敷かれたレールの上を走るのが嫌でまわりの人たちから「反逆のカリスマ」と謳われてるからとかではもちろんなく、フリーで仕事をしているからであって、この場合「反逆のカリスマ」はなんの関係もなく、そもそもぼくは「反逆のカリスマ」なんて呼ばれたことがない。って、なんの話をしておるのだ。と、自分で自分につっこんだところで夏休みの話にもどしますと、ぼくは先週くらいから仕事らしい仕事もしておらず、すでに夏休みに入っているといえばいえるわけで、自分で夏休みの期限をきめているとかいっておきながら、いつからいつまでって感じにかちっとその期日をきめているわけではなく、実際はけっこう適当な感じだったりする。

 

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