夏休みが教えてくれる  |  davinci

 

写メ交換しといたらよかったーって嘆いていましたよね。わたしは当然ながら(というのもなんかおかしいような気がしますが)、自分の容姿のことを思いました。自分で自分のことをかわいいというほど自惚れは強くありませんし、そういう性格的なことは抜きにして、客観的な観点からいってもとびっきりの美人であるとはいえませんが、極端に変な感じであるとかではないと思います(自分で自分のことをいうのは、とても難しいことですね!)。
 それで、これまでに中川さんにはいってませんでしたが、わたしが現在住んでいるところは大阪です。堀江のカフェにも、よくってほどではありませんが、たまに行きます。だからというわけではないのですが、今回の掲載分を見て、わたしがモデルになっている「手紙の女の子」だけでなく、「長谷川」が〈手紙の女の子ではないか?〉 と妄想する相手の女の子も、わたしのことじゃないかな、なんてことを思ったりしました(勝手なことをいってすいません)。

 今回の連載にもまたわたしのこと(といっても問題ありませんよね? もしくはわたしのことをモデルにしたと思われる手紙の女の子のこと)が出てきて、そのことがまず、普通にというか、とてもうれしかったです(それとともに、やっぱり戸惑いみたいなものもありましたが……)。
 それで、今回はその手紙を送ってきた女の子にたいして「長谷川」があれこれと想像(妄想)する場面があるじゃないですか。カフェに入ってきた、ものすごくかわいくてタイプの女の子を見て、もし手紙の相手の女の子がこんなかわいらしい娘というか、ずばりこの女の子自身だったらどうしようみたいな感じで。それを読んでわたしはクスクス笑いましたし、なんかかわいらしいなあとも思いました。といいますか、中川さんもやっぱりそういうことを考えたりしたことがあったりするのですか? そういえば『POKKA POKKA』の主人公も「ヨシダさん」と会う直前になって、

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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そもそも、最初の手紙で「ヨシダさん」のモデルはわたしであるかもしれませんなんてことをいいましたが、これも最初にいいましたように、まったくなんの根拠もなくそんなことをいっているわけではありません。当然、わたしは中川さんとも面識があります(ずっと正体を明かさないまま、一方的なことをいって申し訳なく思っています。すみません)。だけど、中川さんがどこまでわたしのことを意識されて書かれたのかはわかりませんし、現在連載中の小説のなかでもおっしゃっていたように、そもそも中川さんの小説にモデルなんて存在しないのかもしれませんし、その事実関係を問題にしようとしているわけでもありませんが、ただわたしが今回の連載を読んでそう思ったということです(わたしがモデルだと断定しているわけでは当然ありませんし、そうだったらいいなあと思っているわけでもなく、ただ「わたしのことじゃないかな」とわたしが勝手に思ったということです)。

 ここまで書いたところで手紙のここまでのところを読みかえしてみたんですけど、わたし改行後に「それで」ばかりつかってますね。すみません。って謝るほどのことでもないかなと思いますし、気づいたんなら書き直せよってつっこまれるかもしれないんですけど、とりあえずこのままいきます(手書きということもあり、ゆるしてください。それにもともと文章もうまいほうではありませんので……)。
 それで(←これは意識的につかいました。笑)、また話がぜんぜん変わってしまうのですが(と書いて、話が変わるというよりか、いままでの話とつながっているんじゃないかなとも思いました。すくなくとも、「ぜんぜん」というほど変わってないと思います)、現在連載中の小説のなかで、わたし(をモデルにした)と思われる人物(=手紙の女の子)が出てきたとき、それを読んで不思議な感じがして、それとともにとてもうれしかったということを以前の手紙で書きましたが、

 

いまはその「不思議な感じ」がこれまで以上に大きくなっているというか、現在連載されている中川さんの小説を読んでいると、わたしの行動や手紙で書いたことが中川さんの小説になっていっているような気がするんです。と、これも先ほどのこととおなじで、断定しているわけではありませんし、もしそうだったとしても、わたしのことをモデル(元ネタ?)にしてることに不快な思いをしているわけでもありません(むしろ、うれしいくらいです)。ただ、現実と小説が連動していることを、それを目の当たりにして、なんだか不思議な気分になっているんです。
 今回ウェブにアップされたなかで「長谷川」が「この手紙を送ってくれた女の子が虚実を混同してぼくにアクションを起こしてきたから、そのレスポンスとして、ぼくも虚実を交えてなにかしらの回答を小説のなかで示されへんかなって、そんなことを思いついてん」と語ってるところがあるじゃないですか。これを読んでわたしなりにいろいろ考えたのですが、ここに書かれてあるのは、

まずは小説に書かれてあることがすべてほんとのことではないということと、わたしからの手紙が呼び水となって、中川さんの小説がなにかしらの動きを見せたということではないのかなと思いました(まちがってたらごめんなさい)。とりあえずその仮定が合っているものとして話を進めさせていただきますが、最初にわたしからの手紙があり、その手紙を元に中川さんが小説の一部分を書き、その「虚実を交え」た「なにかしらの回答」を読んだわたしが、その内容の一部がわたしのことであると思ったり、わたしが手紙で書いたことの一部が小説になっていることにたいして不思議がっていたりしたというのがこれまでの成り行きですが、ここでわたしが思ったことは、「つぎはわたしの番だ」ということです。
 なにが「わたしの番」なんだって、お笑いになるかもしれませんが、現状では小説と実際の出来事がなんだか入り組んだ感じになっていて(そう思っているのは作者の中川さんを除いて、たぶんわたしだけで、

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一般読者の人にはわからないわけですけど。なぜなら、読者の方はわたしの手紙が本当に送られていることや、その内容を知らないわけですから)、それが小説の推進力のひとつにもなっていると勝手に思ったりしたのですが、わたしが手紙に書くことが中川さんの小説になにかしらのお役に立つのだったらと思ったりして(なんだかちょっとえらそうな感じで、すみません。お役に立つというか、わたしの書いたことを元ネタにして、中川さんがそれをうまく小説に昇華してくださったらうれしいのですが)、わたしなりに「なにか」を書いてみようと思ったのです(越権行為というか、身のほどを知らない行動であることは自分でもよくわかっていますが、とにかくやるだけやってみようと思います……。といいますか、ここまで書いてきて、自分でもなにをいってるのかよくわからなくなってきているのですが、文章が下手なのはいまにはじまったことではありませんので、おゆるしください)。

 

それで「なにか」というのはなにかといいますと、「なにか」としかいいようがないのですが、そうはいいながらも「なにか」はなにかをなにかしら書かないとなんのことだかわからないと思いますので、すこし書いてみます(←この一文は、なにかことばの流れがおもしろかったので、調子にのって書いてみました)。
 えっと、だからなにがいいたいのかといいますと(自分でも整理しながら書いていきますね)先ほど「わたしの行動や手紙で書いていったことが中川さんの小説になっていくような気がするんです」と書きましたが、今回はそのことを意識しながらわたしも手紙を書かせていただくというか、思い切った書き方をしますと、いまここで中川さんになにかしらのインスピレーションを与えるようなもの(格好よく書きましたが、要はネタになるようなものです)、もっというと、いまの連載の今後の展開についてわたしが書き(実際に書けるかどうかはわかりませんが……)、

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それが中川さんの次回の連載に反映されたりしたらおもしろいなあと思ったのです(生意気に聞えたら、すみません)。といっても、事細かに小説の展開を予想するということではなく、こういうセンテンスがあればおもしろいなとわたしが思いついたものを書くくらいのものですので、当然ながら、それほど内容的にすごいものではないと思いますが(そんなことはいちいち断りをいれるまでもなくわかってるよ! と思われてるかもしれませんが……。気分を害されたらごめんなさい)。
 それで、とりあえずいままでのところをあらためて読み直してみました。
 最初に「耕太」がカフェのカウンターで本を読んでいる女の子(=清美)に一目惚れして、そこに「耕太」の友だちの「京ちゃん」がやってくる。つぎの章ではその「京ちゃん」が友だちの「田辺」とモツ鍋を食べて、そのつぎの章でその「田辺」が自分の部屋で恋人の「美佐子」と別れ話をする。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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そのつぎが堀江のカフェで「美佐子」と小説家の「長谷川」が話をして、つぎの章では「長谷川」と「清美」が出てきて、場所は小説の冒頭に出てくるオムライスがすごくおいしいお店。その回の最後の場面で「耕太」が店に現れる。
 すごく簡単にまとめましたが、これが連載中の小説のこれまでの流れですよね(あらためてですけど、なんか中川さんにたいして講釈をしているみたいで、すみません)。つけくわえると、「長谷川」と「清美」が出てくる回には途中でカフェにモヒカンの男が出てきましたけど、これは「田辺」ですよね?(すくなくとも読者に「田辺」であることを匂わせるような書き方になっていると思うのですが)この場面での「田辺」の登場と、そのすぐあとに「耕太」が出てきたこと、それらのことと併せてこれまでの小説の流れ(展開)を加味してあらためて考えてみたのですが、人と人とのつながりの不思議さみたいなものを中川さんは書こうとされたのではないのかな、

なんてことを思いました(もちろん、表現されようとしたのは、そのことだけではないと思いますが)。それで思ったのが「人は自分の知りあいを六人以上介すと世界中の人々と間接的な知りあいになれる」という〈六次の隔たり〉のことで、ソーシャル・ネット・ワーキング・サイトとかもこの法則が元になってるみたいですね。小説の第一回目のときに「耕太」も、「清美」と仲良くなるための方法のひとつとして、自分の友だちの誰かが実は彼女と知りあいで、その友だちをきっかけに彼女と仲良くなれないかなあなんてことを考えている場面がありましたが、実際に小説のなかでそういうことがこれから起こるかどうかはべつとして、本人たち同士が気づかないとしても「耕太」から友だちをたどっていくと「清美」にまで行きつくということが小説では描かれているじゃないですか。でも本人たちは気づかないというところが(当然、気づくはずはないんですけどね)おもしろく感じるのですが、そういうことっていうのは、

わたしたちの日常のなかにも普通にあることなんじゃないのかな、なんてことも思ったりしました。そもそも〈六次の隔たり〉自体が「六人以上介すと世界中の人々と間接的な知りあいになれる」ということで、この理論でいいますとすこし友だちをたどっていけば大抵の人とは知りあいということになりますが、そこまでの規模ではなくても、たとえば電車で横に坐った男の子が友だちの女の子の元彼だったなんてことが、頻繁にとはいわないまでも、自分たちが気づかないだけで起こっているのではないのかな、なんてことを思ったりしました。そういうことがわたしにもあったというわけではないのですが(もしそういうことがあったとしても、本人は気づきようがないんですけどね)、この前カフェでランチを食べていたときに、携帯電話でミクシィをしていたことがありました。それで、ふと横を見ると、スーツを着た若い男性(たぶん二十代前半くらい)がノートパソコンを開いていて、ちらっと画面を見てみると、その人もミクシィしていたんですよ。

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

すみません。じゃ、あらためていまから、とかちょっと思ったのですが、あらたまって書くようなこともないような気がしますし、これ以上長くなっても中川さんに迷惑かなと思いますので、今回はここでやめておきます。
 もともとわたしが中川さんに手紙をお送りしたきっかけは、『POKKA POKKA』の「ヨシダさん」のモデルがわたしのように思われますということからでしたが、なんだかこうしていま手紙のやりとりをしていると(中川さんからの返事というか、回答は小説のなかに書かれているわけですけど)、なんだかわたしたちが本当に『POKKA POKKA』の主人公と「ヨシダさん」みたいですね。「ヨシダさん」と主人公は実際に会いましたが、だからというわけでもないんですけど、もしよかったら、今度お会いできませんか?(急なお誘いで申し訳ありません。もちろん、中川さんがよかったらということですが)

だからなにってこともないんですけど、そのときにちょっと思ったのが、いまわたしが見ているコミュニティ(そのときはたしか「左利き♪」とか「海外一人旅」なんかを見ていたと思います)のトピックスに書きこんでいるうちの一人が、もしかしたらこの隣の男の子かもしれないということで、その確率はかなり低いわけですがまったくゼロではないわけで、そう思うとべつにこの横の男の子ではなくて、そこらへんを歩いてる人の一人ひとりがそういう可能性があるのではないかな、なんてことを思うと、なんか不思議な感じがしたのですが、それとおんなじようなものを今回の中川さんの小説を読んでいて感じました。
 ここまで長々と書いてきましたが、「こういうセンテンスがあればおもしろいなとわたしが思いついたものを書く」とかいっておきながら、ぜんぜんそんなことは書かずに、なんかただの感想みたいになっていることにいま気づきました。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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 今回の手紙の最初のほうで書きましたように、現在わたしは大阪に住んでいます。顔見知りであることも書きました。だから、中川さんと実際にお会いすることで当然正体がばれるというか、フジタエリコというのが本当は誰なのかということがわかってしまいます。そのことを隠しつづけ、匿名性をたもったまま中川さんとやりとりをしていくのもいいかなと思いましたが(すくなくともわたしには有意義で、楽しい時間です)、本当はわたしが誰かということを中川さんにお伝えしたいという思いも大きくなってきて、今回こんなお誘いをしてしまいました(中川さんが実際にお会いしてくださるかどうかは、わかりませんが。もちろん、無理なら断ってください)。
 ほんとに長くなってしまいましたが、今回はこのへんで失礼させていただきます。連載のつぎの回(最終回?)がとっても楽しみです。それでは、また。
                                フジタ エリコ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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 読み終わったあと最初に思ったのが、また次回分の原稿にすこし、というかけっこう手を入れないといけないなということと、やっぱりフジタエリコって、その正体は柴田やないのかしらん? ということだった。その可能性は限りなくゼロに近いとは思われるが、やっぱり限りなくゼロに近いということはゼロではないということで、その可能性を相手から示されることがなければフジタエリコ=柴田なんて構図は思いつきもしなかったことであるが、いったんその可能性に目がいってしまうと、それを完全に払拭することは想像以上に難しいことであった。どこがどうと具体的に指摘することはできないが、これ柴田が書いたんちゃうかな? なんてことを思うと、どこを取ってもそんなふうに感じられてしまうわけで、人間疑いだすと切りがないよなあ、なんてことをぼんやりと思ったりしたのであった。