夏休みが教えてくれる  |  davinci

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中川 充

 
 
 

 
Mitsuru Nakagawa

第7回

 
 
 
 

 
 
 
 
 
中川 充

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 
 
 
 
 
Mitsuru Nakagawa

ネット上の読者投票を経てデビューした作家・ナカガワのもとに、一通のファンレター(?)が届いて……

第1回から読む

 
夏休みがおしえてくれる

 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

夏休みが教えてくれる

 
 
 
 
 
 
 
 
        第7回

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 
             §

 連載の五回目の原稿がウェブに掲載されて一週間ほどして、編集部から次回分のゲラとともに二枚の封書が届いた。裏返すと、一枚は予想どおり「フジタエリコ」の名前があり、もう一枚は初めてみる名前だが、なんでかこれも封書の裏の右下にカタカナで氏名が記されている。どちらもすごく気になったのであるが、とりあえずフジタエリコじゃないほうの封を切り、中を見てみると三枚の便箋が出てきた。最初のほうの数行を読み、うわあ、これはまさしくファンレターやんか。と喜び勇んだぼくは最後まで一気に読んだのであるが、フジタさんの手紙みたく全文引用することは差し控えさせていただく。なんでかというと、内容が本来あるべき姿のファンレターというか、ぼくの小説のことを褒めてくれていたりするので手前味噌になっちゃうということもその理由のひとつなのだが、

フジタさんとちがって今回のこの手紙の方は本名で送ってきてくれており(フジタエリコさんを意識してのことであろう、手紙の中で自分の名前を書いたあと、「封筒の裏にはカタカナで書きましたが、これはべつに仮名ではありません」とご本人が書いておられる)、さらに内容も「『POKKA POKKA』のヨシダさんのモデルはわたしじゃないでしょうか?」みたいな突拍子もないものではなく、本の感想やら自分の紹介、さらには応援メッセージなどがその主な内容で、すなわちこれを全面的に公開するとプライバシーの問題に抵触してしまうと思われるからだ。そんなわけで、彼女———中学三年生の女の子———の手紙を引用するのはやめておきます。
 しかしながら、彼女の手紙にまったくもってフジタエリコさん的要素(自分で書いておきながらいうのもなんだが、なんか変なことばだ)がないのかというと、たしかに内容自体は一般的なファンレターで(送っていただいて、ありがとうございます)

 

夏休みが教えてくれる

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そういった気配はないのであるが、彼女が手紙を書き、実際にそれを送るというアクション自体にはフジタエリコさん的要素がまったくふくまれていないといえないこともない。どういうことかいうと、これを書いた女の子が、ぼくがこの手紙を読むことによって現在連載中の作品になにかしらの影響が出るのではないかと考えていると考えるのはちょっと深読みしすぎの観がいなめないが、そういったニュアンスがまったくゼロであるのかというと、まあ実際のところはご本人さんに聞いてみないと真相はわかんないけども、五パーセントくらいはそんな気持ちがあったのではなかろうか。なんでそんなことがいえるのかというと、彼女の手紙の中に「ちなみに、私が今、こうしてちまちまとお手紙を書いているのは、『フジタエリコさん』の影響も大きかったりします」と書いてあったからというのもその理由のひとつなんだけど、それだけの理由をもってしてそのようにきめつけてしまうのはさすがに短絡的すぎるわけであるが、

ぼくがそのような意見を述べるのはそれだけの理由からではなく、たとえば「ちょっとやってみたかっただけです(笑)」といいながらフジタさんを意識して封書の裏にカタカナで自分の名前を書いてみたり、そのどことなしか悪戯っぽい感じもふくめた全体の雰囲気が、フジタエリコさん的なものを(といっても五〜十パーセントくらいだけど)こちらに感じさせないといえなくもないのである。
 と、いまこんなことをだらだらと書いたからといって、この岐阜に住む中学三年生の女の子からの手紙を迷惑に思っているのかというとそんなことはなく、むしろというかさっきも書いたようにこのうえなくありがたい話で、感謝の気持ちでいっぱいになっている。そして、おもしろいと思ったのが、彼女がぼくに手紙を送る、その実際的な行動に移るきっかけを後押しする要因の一端を担っているのがフジタエリコさんの存在だということだ。思い切った言い方をすると、フジタさんのおかげで、

 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

実際のフジタエリコさんは〈小説内の小説〉だけ読んで新たにぼくに向けて手紙を送ってきているわけではなく、ふたつの世界(=小説内の現実&小説内の小説)すなわち『夏休みがおしえてくれる』全体を読んで手紙を送ってきてくれている。
 いまこんなことをあらためて書いたのは、いちおう『夏休みがおしえてくれる』という小説の設定上では、フジタさんは〈小説内の小説〉を読んで、その作者であるところの「ナカガワ」に手紙を送ってきているわけで、すなわち、小説を飛びだした現実の世界——ぼくであったり、これを読んでくださっている読者の方たちが実際に生活している〈実際の世界〉のことは無視をしているというか、フジタさんはあくまで〈小説内の実際の世界〉から手紙を書いている設定になっているからである。このことを読者の方はどこまで認識して読んでくださっているのかはわからないけど、ぼくとしてはそのどちらとも——すなわち〈小説内の小説〉の外側にある〈小説内の現実世界〉、

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

ぼくはこの岐阜の中三の女の子からファンレターをもらえたということもできる。しかしながら、そのフジタさんの存在を小説に登場させたのはぼくだから、やっぱりぼく自身がその女の子からのファンレターを誘発したことになるともいえる。
 いずれにしても、このつながりにはおもしろいところがあるように思われる。まずフジタエリコさんの手紙があり、そこからぼくは現在連載中の『夏休みがおしえてくれる』という小説の構想を練りだした。そして、主人公に小説家である「ナカガワ」(すなわち、いまこの文章を書いている、この小説の語り手)を抜擢し、そのナカガワが書いている小説という体(てい)で小説内に小説を書きだす。小説(=『夏休みがおしえてくれる』)のプロットとしては、その〈小説内の小説〉を読んだフジタエリコさんから〈小説内の現実の世界〉に住む主人公ナカガワに向けて手紙が来るという流れになっているが(もちろん、そのエピソードだけを追っているわけではないけど)、

手紙と〈小説のなかの小説〉を連動させるということを思いついた時点で、それに適したかたちでフジタさんの手紙の内容に作者である「ナカガワ」が多少手を入れたり、不要と思われるところを削ったりしている可能性がないとはいえない。
 と、ここまでだらだらと書いてきたが、まさに、いま、この説明をしているのが〈小説のなかの現実の世界〉に存在している「ナカガワ」であって、そういう意味では、この「ぼく=ナカガワ」は非常に「信用のできない語り手」であるといえるわけであるが、それは意図してやっていることなので、たとえば先ほどフジタさんの手紙についても〈小説内の現実〉と非小説の世界である〈現実の世界〉とその「両方の可能性を示しつつ書いてきたつもりだ」と書いたわけだが、当然ながらそれは必然性をもってどちらともとれるように書いたわけで、読者の方がどこまで認識して読んでくださっているのかはわからないけど、現実と虚構の境界線がふわふわ漂っているというか、

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

さらにはそれらのフィクションの世界とは異なる〈現実の世界〉の両方の可能性を示しつつ書いてきたつもりだ。
〈小説内の小説〉を読んで、〈小説内の現実世界〉にいるフジタエリコさんから作家・ナカガワに手紙が来ているという設定でいくと、あくまでフィクションとして輪が閉じてしまうというか、必然的にフジタさんは架空の存在ということになってしまう。現実(=非小説の世界)のフジタさんから来た手紙は、『POKKA POKKA』や『夏休みがおしえてくれる』を読んだうえでというか、その内容に即して書いてこられるわけだから、当然その手紙の内容は劇中劇のことだけではなく、『夏休みがおしえてくれる』全体を読んだうえでの感想が送られてきている。
 しかし、ここでもうひとつ気をつけていただきたいのが、そのフジタさんの手紙が発表されている媒体が小説だということで、『夏休みがおしえてくれる』のプロット——読者(=フジタさん)から来た手紙を(最初、二回目に送られてきた手紙はさておき)劇中劇の中に取り込み、

実際にそのようにしたのも作者であるところの「ぼく」であるわけだけど。もっというと、その中学生の女の子からの手紙というのが、本当に届いたのかどうか読者の方はたしかめようがないわけだけど)。
 というわけで、ありがたい気持ちでいっぱいになりながら、その中学生の女の子の手紙を読み終えると、こんどはフジタエリコさんからの手紙を取りあげた。九〇パーセント以上の確率で来るやろなと思ってはいたけど、来たら来たでちょっとどきどきしたりもして、そうはいってもやっぱり楽しみにしている自分も否定することができず、べつに否定する必要もないんだけど、なにが書いてあるのかしらん? と封を開け、さっそく読んでみた。

夏休みが教えてくれる

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

そのゆらぎ具合がぼくなんかはおもしろいと思ってしまうというか興味があることなので、実践してみましたというわけである。
 だからといって、そのような企み(というほど大げさなものでもないけど)をここまで小説の中で公にする予定は当初にはなく、じゃあなぜそのような行動に出たのかというと、その原因となったのが岐阜から届いた中学生の女の子の手紙で、この手紙の存在について小説内で言及することで先ほどいった「ゆらぎ」の振幅を大きくすることができるのではないのかしらんと思ったりしたわけだが、もしその手紙のことを小説内に挿入するのであれば、この小説の構造的なことについてすこしふれておいたほうがいいのではないのではないのかしらんなんてことを愚考したわけで、そんなもんだから冗漫とも思われるこんな説明を差し挟んだのである(もっとも、「岐阜から届いた中学生の女の子の手紙」を小説に登場させようと思い、

 

だって内容がそのまんまわたしが送ったのとおんなじなんですもん?!
 最初はびっくりしましたよ。しかも「長谷川」(=中川さん?)が「登場人物に関しては誰ひとりモデルとかは想定してなかった」っていってるのを読んで、なんだか恥ずかしいような気にもなりました。「ヨシダさん」のモデルがわたしであるってことが、単なる勘ちがいなのかなって(もちろん、確実にわたしがモデルであると断定していたわけではありませんが……)。でも、わたしもまったくなんの根拠もなくそんなことをいっていたわけではなかったのですが、やっぱそういうことをわざわざ手紙でいわれたりするのは迷惑なのかな、なんてことを思ったりもしました……。
 そんな感じで、落ちこむといったらすこし大げさかもしれないんですけど、ちょっと思考がネガティブな感じになっていたりもしたのですが、

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

夏休みが教えてくれる

 

 やっぱり、わたしの予想どおり「長谷川」が出てきましたね! といいますか、前の手紙に書きましたように、ほかにこれといった情報もありませんでしたし、「長谷川」以外の人物が登場してくる可能性はほとんどなかった感じですけどね。それで、読んでいて思ったんですけど、「長谷川」のモデルはやっぱり中川さん本人なんですか? 読めば読むほどそう思えてしまうんですが、「長谷川」の誕生日も七月十七日って設定されていて、これはもうまちがいないと勝手に思いました(雑誌に載ってたプロフィールで確認しましたが、中川さんの誕生日も七月十七日ですもんね)。
 といいますか、先日アップされた第五回目の連載の最後のほうでファンの女の子から手紙が届いたというエピソードを読んで、もう絶対に「長谷川」=中川さんだって思ったんですよ。そもそも、あのファンレターを書いて送ってきた女の子って、わたしのことですよね?