晴れた日は、  |  davinci

ら」
 と山岸は再び歩き始めた。
「先生?」
「名前は増渕さんと仰るんですが、近所の人間は先生と呼んでるんです。子供向けの塾を開いておられるもんですから。それに、何でも昔はどこかの大学で教授をされていたとか」
 本当だろうか、と菜美は思った。大学の教授まで務めた人間が、どうしてまたあんな廃屋のような家に住んでいるのだろう。自分を立派に見せるために適当な作り話を吹聴しているのかもしれない。
 やがて、アパートの前を通り過ぎて建物の前に着くと、先ほどはなかったはずの車が敷地に停められていることに気付いた。
「おや、来客中かな」
 山岸はちらりと車内を覗いてから、建物の入り口へ向かう。菜美はその背中に隠れるようにして後に続いた。
 間近で見ても、やはり建物は打ち捨てられた倉庫のよう

 

にしか見えなかった。ただ、アパートからは見えない位置に物干し台や古びた洗濯機、自転車などが置かれていた。敷地の隅には仮設トイレのようなものも設置されている。
 山岸がドアを軽くノックすると、少し間を置いてから、
「はいはい、どちらさんでしょう」
 と男が出てきた。よれよれの白いシャツと色褪せた紺色のスラックスを身につけていたが、体形と髪型からすると先ほどの男なのは間違いない。年は六十代半ばくらいだろうか、長い眉毛の下の大きな目が印象的だった。
「どうも、先生。お邪魔します」
「やあ山岸さんか。今日はどうしたんです?」
「それがですね、こちらのお嬢さんは芝田さんといって、すぐ隣のアパートに越してきたばかりなんですが、さっき建物の裏手で先生が裸になっているところを目にしてしまったそうで」
 山岸の言葉に、増渕は一瞬ぽかんとした表情を浮かべてから、
「あ、こりゃいかん。それは失礼しました」

晴れた日は、
お隣さんと。

 

 と慌てて菜美の方へ向き直って頭を下げた。
「それよりも、どうして外で裸に?」
 菜美はそっと尋ねた。
「この家には風呂が付いてないものですから、暖かい季節になってくると、ホースを使って室内からお湯を引いて外で汗を流しているんですよ。これまでは周りに他の建物もなかったんで人目を気にしなくてもよかったんですが、そうですか、アパートから見えてしまいましたか。申し訳ない」
 増渕は恐縮しきった様子で頭を掻く。
「いえいえ、こちらこそ後から引っ越してきたわけで、決して文句を付けているつもりでは……」
 菜美は急いでそう応じた。分かってしまえば気が抜けるほど真っ当な理由だ。風呂がないからといって平気で屋外で裸になれるという感覚が普通かどうかはともかくとして、決して変質者ではないことは確かだった。恥ずかしげに謝罪する増渕が気の毒に思えてくる。
「そんなわけで、先生、今後は多少気を遣ってもらえると

晴れた日は、
お隣さんと。

ありがたいんですがね。芝田さんは交番まで足を運んでくれましたけど、いきなり一一○番に通報するアパートの住人が出てくるかもしれませんし」
 山岸が言うと、増渕は頷き、
「今度から敷地の反対側で汗を流すことにしますよ」
 と答えた。屋外で全裸になるという方針に変わりはないらしい。
「ところで、どうです、せっかくここまで足を運んでくれたんですから、上がってお茶でも飲んで行っては。そちらのお嬢さんも」
「いえ、私は長いこと交番を空にしておくわけにはいきませんので、これで失礼します」
「私は……」
 菜美が返事に迷っていると、急に増渕の背後から人影がぬっと現れた。
「どうしたんですか、先生」
 そう言ってちらりと山岸と菜美の顔を見回したのは、メタルフレームの眼鏡をかけた端整な顔立ちの青年だった。

「では、私はこれで。また何かあったら気軽に声を掛けてください」
 山岸はそう言って踵を返した。本当にありがとうございました、と菜美は頭を下げて、去っていく山岸を見送った。
 やがて山岸の姿が木立に隠れて見えなくなると、さあどうぞ、と増渕は菜美を室内へ招き入れた。
 ドアから一歩踏み込むと、もうそこは塾の教室になっていた。十五畳ほどの広さで床にカーペットが敷かれ、脚の短い長テーブルが二卓ずつ、二列に並んでいる。その長テーブルの列と向かい合うようにして、壁にホワイトボードが取り付けられていた。よく観察すれば、壁にも床にも強引に改装したような跡が残っていることに気付くが、外観から想像していたのとは違って室内の様子に荒んだところはなかった。掃除が隅々まで行き届いているからだろうか。
 康孝は部屋の隅で横になり、肘枕をして新書サイズの本
を読んでいた。菜美と増渕が入ってくると、ちらりと視線

 

晴れた日は、
お隣さんと。

涼しげな眼差しを向けられ、菜美は少し頬が熱くなった。
「やあ、康孝くんじゃないか」
 顔見知りらしく、山岸が親しげに声を掛けた。
「あ、どうも」
 康孝はぼそりと応じてから、
「しつこいセールスマンに捕まってるのかと思いましたよ」
 と増渕に言って、すぐに中へ引っ込んでしまった。
「やれやれ、相変わらずだな」
 山岸は呆れたように言った。
「で、いかがです? 引っ越したばかりで色々とお忙しいでしょうから、無理にお誘いするつもりはありませんが」
 改めて問い掛けてくる増渕に、
「それじゃあ……ちょっとだけお邪魔します」
 と菜美は答えた。誘いを受けることにしたのは、近所に顔見知りを作っておけば何かと心強いだろうと思ったからであって、決して康孝とお近付きになりたいという下心が
あるわけじゃないんだから、と自分に弁解する。

意したから、こっちに来てください」
 増渕はテーブルの上に湯飲みを並べながら、康孝の方を振り返った。
 康孝はのそりと身を起こし、本に視線を落としたまま菜美たちの方へやって来た。そのせいで途中でテーブルに脛をぶつけてしまい、痛っ、と声を上げる。しかし、それでもまだ本を読むのを止めようとしなかった。
 菜美は呆れてその様子を見守っていたが、増渕は気にする様子もなく、座った康孝の方へ湯飲みを押しやった。
「済みません、いただきます」
 菜美は礼を言って湯飲みを手に取った。入っていたのは熱い焙じ茶で、口に含むと爽やかな香ばしさが広がった。
「芝田さんは学生さんではないですよね?」
 増渕は一口お茶を飲んでから、そう尋ねてきた。
「修士を出たばかりですが、今年の春から一応社会人になりました」
「ということは、就職の関係でこちらへ越してきたというわけですか」

 

晴れた日は、
お隣さんと。

を上げたが、何の反応も見せずに再び読書に戻る。
「急いでお茶を入れますから、上がって適当に腰を下ろしていてください」
 増渕は広く取られたでサンダルを脱ぎ、部屋を横切って奥にあるドアに入っていった。外から見た建物の大きさから推測すると、ドアの向こうには八畳くらいの部屋があるはずだった。
 菜美は靴を脱いで、お邪魔します、と声を掛けながら部屋に上がった。聞こえなかったはずはないのに、康孝は顔を上げようともしない。
 随分無愛想な人だなあ、と思いながら、菜美は適当なテーブルの横に腰を下ろした。最初に受けた好印象が少し薄れてしまったが、やはり康孝の存在が気になってちらちらと視線を向けてしまう。康孝は、時折ページを捲る他はほとんど身動きもせず本を読み耽っていた。
 しばらくして、奥の部屋から増渕が戻ってきた。手にしたお盆には湯飲みが三つ載っている。
「どうもお待たせしました。……ほら、康孝くんの分も用

 

晴れた日は、
お隣さんと。

「はい。この近くにある、郷土資料館に勤めることになったんです」
「ほほう、それじゃあ学芸員というわけですな」
 増渕が感心したように言ったので、菜美は慌てて首を振り、
「いえ、資格は持ってるんですが、今回は事務員としての採用なんです。その代わり、本来の業務の他にも、色々と手伝わせてもらえるそうです」
 と答えた。
「そうですか。まあ、近頃は学芸員として就職するのもかなり難しいそうですから、ゆっくりと経験を積み重ねていって、能力を認めてもらうのが一番でしょうね」
 増渕の口振りからすると、その辺りの事情をよく飲み込んでいるような感じだった。少なくともある程度の知識がなければ、学芸員という言葉がすっと出てくることもないはずだ。
「芝田さんは修士を出たばかりということですが、すると、二十四歳ですか?」

「ええ、そうです」
「じゃあ、康孝くんと同い年ですね。……確か、そうだったでしょう?」
 増渕が問い掛けると、ようやく康孝は本を閉じた。読書を中断して会話に参加する気になったのかと思ったら、
「いやあ、面白かったですよ、この本」
 と嬉しそうに言う。要するに、最後まで本を読み終えただけということらしい。テーブルの縁に置いた本には「ブラックホールとタイムトラベル」という題名が記されていた。
「楽しんでもらえて良かったですよ。……で、どうなんです?」
「どうって、何がですか?」
「年齢のことですよ」
「先生のですか?」
「康孝くんのです」
 二人は真顔で間の抜けたやり取りをする。
「僕なら二十四ですけど……」

 と子供が元気に飛び込んできた。小学五、六年生くらいに見える男の子だ。靴を脱ぎ散らかして部屋に上がってくる。
「やあ、今日は早いですね。一番乗りですよ」
 増渕は微笑みながら声を掛けて、菜美の方を振り返り、
「うっかりしていたんですが、今日は五時から授業が入ってまして。こちらからお誘いしたのに、あまりゆっくりしていただけなくて済みません」
 と心苦しそうに謝った。菜美がちらりと壁時計に目をやると、午後四時五十分になったところだった。
「いえいえ、こちらこそ急に訪ねたりして済みませんでした。それでは、また……」
 菜美が腰を浮かしかけると、
「この後は何か予定が入ってますか?」
 と康孝が急に尋ねてきた。
「ええと、別に急ぎの用事は……」
 もし食事にでも誘われたらどうしよう、と内心でどきどきしながら菜美は応じた。ちょっと、というよりかなり変

 康孝は不思議そうに答えた。どうやら、菜美と増渕の会話は一切耳に入っていなかったようだ。先ほど菜美が声を掛けたときも、無視したのではなく本当に聞こえてなかったのかもしれない。
「あの、こちらは?」
 菜美は目で康孝を示しながら尋ねた。
「ああ、紹介がまだでしたね。彼は諸井康孝くんといって、私の教え子だったんです。この塾へ通っていたのはもう十年以上前になりますが、今でもこうしてよく顔を見せてくれまして」
「だった、はないでしょう。僕は今でも塾生ですよ」
 康孝は不満そうに言った。
「おっと、そうでした」
「いつまで経っても先生に教わっていた頃の気持ちを忘れない、ってことですね」
 菜美は気の利いたことを言ったつもりだったが、
「違うんです、本当に塾生なんですよ」
 と即座に否定されてしまう。
 どういうことだろう、と菜美は首を傾げた。まさか、この年になってまだ算数や国語を教わっているはずもないし。
 そのとき、入り口のドアが勢いよく開かれて、
「こんにちは!」

晴れた日は、
お隣さんと。

 

なところもあるけれど、康孝に何の魅力も感じないといえば嘘になる。でも、知り合ったばかりだし、そう簡単に誘いに応じたら軽い女に見られるんじゃ……。
「だったら、先生の授業を見ていきませんか?」
「は?」
「いや、だから、もし急いでないならここで先生の授業を見ていくといいですよ。一時間半だから、そんなに遅くならないし。きっと僕が塾生だっていう意味も分かると思います」
 思いもかけない康孝の言葉に、菜美は少しがっかりしながら、
「だけど、部外者がいたら迷惑になるんじゃ……」
 と増渕の方を窺った。
「それは一向に構いませんよ。どうせ康孝くんも聞いていくんでしょう? 一人増えるのも二人増えるのも一緒ですよ」
「……では、お願いします」
 どうせ部屋に戻っても荷物の片付けくらいしかすること

がないし、増渕がどんな授業をするのか興味がある。
「もし途中で退屈したら、気を遣わずにいつでも帰っていいですからね」
 増渕はそう言ってから、空になった湯飲みを盆に載せて、一度奥の部屋へ入っていった。
 それから授業開始の午後五時までの間に、次々と子供たちがやってきた。賑やかにじゃれ合ったり駆け回ったりするので、菜美と康孝は邪魔にならないよう部屋の隅へ移動する。子供たちはみんな康孝と親しいらしく元気な挨拶をしてきたが、初めて見る菜美に遠慮をしているのか、あまり近寄ってはこなかった。
 やがて増渕が戻ってくると、子供たちはそれぞれテーブルについた。全部で八人いて、小学校高学年くらいの年頃だ。不思議だったのは、みんなテーブルの上にノートと筆
記用具は用意しているが、教科書や参考書の類は一つもないことだった。
「さて、それじゃあ始めましょうか」
 ホワイトボードを背にして立った増渕はそう言ってから、

 

晴れた日は、
お隣さんと。

「前回はどんな話をしてましたか?」
 と尋ねる。子供たち相手にさえ丁寧な口調は崩さなかった。
「恐竜、恐竜!」
 先ほど、一番乗りしてきた男の子が声を上げると、他の子供たちも同調した。
「ああ、そうでした……確か、葉子ちゃんが一番大きい恐竜について聞いたところで時間がきたんでしたね」
 そう言って増渕が女の子の一人に視線を向けると、はい、という元気な返事があった。
「今のところ分かっている限りでは、一番大きかったのはアルゼンチノサウルスという恐竜です」
 増渕はホワイトボードにその名前を書くと、右下の隅に二センチほどの小さな人型を描き、
「これが葉子ちゃんだとすると、アルゼンチノサウルスの大きさはこれくらいになるんです」
 と言って、人型の十倍以上の高さの恐竜の絵を描いた。四足歩行の首と尾の長い恐竜だ。稚拙な絵ではあるが大き

さを比較するのには充分だった。
「でけえ!」
「踏み潰される!」
 子供たちは楽しげに声を上げる。
 増渕は更にその横へ、恐竜の三分の二ほどの高さの四角い建物を描き、
「君たちの小学校は三階建てですから、このくらいの大きさになりますね」
 と説明する。
「何メートルくらいの高さなの?」
「十七、八メートルくらいになりますよ」
「重さは?」
「百トンを越えることもあったみたいです。百トンというと、みんなの体重が四十キロだとして、二千五百人集まったのと同じですね」
 次々と質問をしていく子供たちに対して、増渕は丁寧に分かりやすい例を挙げながら答えていった。何を食べるのか、卵はどれくらいの大きさなのか、強いのか、一日にど

 

晴れた日は、
お隣さんと。