晴れた日は、  |  davinci

 
 
 

 
 
Eiichi Fukuda

晴れた日は、
お隣さんと。

 
 
ダ・ヴィンチ・ブックス ためし読み

福田栄一

 

※実際の書籍は縦書きです。横書きではありません。
BCCKSためし用にデザインを変更しております。

 
 
 
 
 

 メディアファクトリー
ダ・ヴィンチブックス

 
 
Eiichi Fukuda

 
 
福田栄一

晴れた日は、お隣さんと。

社会人一年目、新生活に胸を膨らませる菜美が、新居の窓から目にしたのは、なんと全裸の男だった!子供たち相手に塾を営む元大学教授の増渕は、ちょっと変わったお隣さん。のんびりとした人柄の反面、無邪気で奇抜な行動に驚かされてばかり。家族とは別居、大学を辞めた経緯も不明と、謎も多い増渕だが、どうやら過去に秘密があるらしく……。

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このブックでは、実際に発売されている書籍の一部をお読みいただけます。
BCCKS用に読みやすくレイアウトしたものであり、実際の書籍の見た目とは異なります。

 












第1話

晴れた日は、
お隣さんと。

 

は高校時代からの友人で、昨日はわざわざバイトを休んでまで引っ越しを手伝ってくれていた。その上、あまりにもしつこく心配するので途中から菜美と母親に無視されていた父親の相手もしてくれたから、ちゃんとお詫びと感謝を伝えておかなくてはならない。
 メールの文面を考えながら、ふと窓の外に目をやったとき、菜美はぎくりとして固まった。畑を挟んで二十メートルほど先に打ち捨てられたようなプレハブ倉庫が建っていて、いつの間にかその裏手に妙な男が姿を現していたのだ。
 距離があるのではっきりとは見えないが、男は腹回りにたっぷりと肉を付けた体形だった。短く刈った髪に白いものが多く混じっているところからすると、初老くらいの年頃だろうか。といっても、そんな外見の特徴はどうでもよ
く、一番重要なのは男が素っ裸でいるということだった。
 肌色のぴったりとした衣服でも身につけているのだろうか、と目を凝らしてみたが、男が屈み込んだ拍子に尻の割れ目まで見えてしまったので、慌てて視線を逸らした。や

 引っ越しのきもほとんど終わり、ようやく部屋が落ち着いた状態になったところで、菜美は一休みすることにした。ダンボール箱から取り出したばかりの薬缶でお湯を沸かし、ティーバッグの紅茶を入れる。家具や食器は新しく買い揃えたものが多いが、紅茶カップは学生の頃から愛用しているものを持ってきていた。
 窓際に置いた小さなテーブルの横に座り、外の景色を眺めながらゆっくりと紅茶を飲んだ。
 窓の外には、柔らかな春の陽射しを浴びる畑が一面に広がっている。育てられているのは春キャベツと葱が中心のようだ。道路沿いにぽつりぽつりと民家が建ち並ぶだけで視界を遮るような高い建物はないから、アパートの二階にあるこの部屋からでも遠くの山の麓まで見渡すことができる。娘を一人暮らしさせることに不安を覚えていた父親も、こののどかな景色を見て幾らかは気が安らいだ様子だった。
 そうだ、佳織にお礼のメールをしておかなきゃ、と菜美は思い付き、充電器に繋いでいた携帯を手に取った。佳織

っぱりどう見ても裸だ。
 何なの、あれ。菜美は困惑しながらちらちらと男を観察した。男は屈み込んだまま何かごそごそやっている。
 昨日、佳織が父親の耳に入らないよう小声で口にした忠告が頭に蘇る。
「田舎だからって油断しないで戸締まりはちゃんとした方がいいよ。危ない奴はどこにだっているんだからね」
 もし、あれが近所に住んでいる変態だったりしたら、まさに佳織が案じたとおりということになる。
 と、そのとき、男が振り返るような気配を見せた。菜美はとっさにカーテンを閉める。間一髪でこちらの姿は見られなかったはずだ。
 男の姿が視界から消えてほっとするのと同時に、憂鬱な気分が込み上げてきた。せっかく新築の広いアパートに入れて喜んでいたのに、近所をあんなのが徘徊していたら台無しだ。それどころか、今後は夜道を歩くたびにびくびくと怯えなくてはならないだろう。
 ともかく菜美は気を落ち着かせるために紅茶をもう一杯

晴れた日は、
お隣さんと。

 

飲むことにした。
 それから、しばらく時間を置いてそっとカーテンの隙間を覗き込むと、男はもう姿を消していた。もちろん、だからといって安心できるはずもない。
 これからどうすればいいのか、あれこれと迷ってから、佳織に電話で相談してみることにした。今日は夕方からバイトが入っていると言っていたが、この時間ならまだ大丈夫のはずだ。携帯で電話をかけると、すぐに繋がった。
「はいはーい、片付けはもう済んだかな?」
 元気な佳織の声を耳にすると、それだけでほっとした。
「うん、荷物はもう大体整理できたんだけど……」
「何かあったの?」
 佳織は菜美の声の調子だけで異変を察したようだった。
「それがね……」
 菜美はもう一度カーテンの隙間を覗き込みながら、事情を説明した。
「……マジで? それってやばいでしょ。すぐに警察を呼んだ方がいいよ」

 まだ迷いながら菜美が応じると、
「じゃあ、また後で電話をして、ちゃんと相談に行ったかどうか確かめるからね」
 と佳織はしっかり念押しをした。
「分かったよ」
 こうなれば、嫌でも警察に相談しに行かなければならない。もし後で、やっぱり行かなかった、などと言おうものなら、佳織にこっぴどく叱られてしまうだろう。決心がつかずにぐずぐずしているとき、佳織に背中を押されて、というよりも尻を蹴っ飛ばされて行動に移すのはいつものことだった。文字どおり、後ろから尻を蹴られてプールの高い飛び込み台から飛んだこともある。
「頑張ってね。もし警察がろくな対応をしなかったら、次はあたしが一緒に付いていって文句を言ってやるから」
 最後に佳織はそう励ましてくれた。もちろん口先だけの言葉ではなく、いざとなれば菜美が止めようとしても実行に移すだろう。
 電話を終えて時計を見ると、午後三時半を少し回ったと

 

晴れた日は、
お隣さんと。

 佳織は真剣な口調で言った。
「うーん、でも、さすがにそこまでは……何か被害を受けたわけでもないし」
 いきなり警察を呼べと言われても気後れしてしまう。これまでの人生で警察に関わったのは、高校時代に盗難に遭っていた自転車を引き取りに行ったときと、万引き犯に間違えられて危うく補導されそうになったときくらいだった。
「なに言ってんの、実際に被害に遭ってからじゃ遅いんだから。今後のことを考えたら、今すぐ手を打っておかないと」
「だけど、一一○番なんかにかけたことないから……」
 なおも菜美がためらっていると、佳織は少し苛立ったように息を吐き、
「だったら、近くの交番に立ち寄って相談してみたら? ほら、駅前の通りにあったじゃない。それくらいならできるでしょ?」
「……まあ、それくらいなら」

晴れた日は、
お隣さんと。

 

ころだった。駅前までは十五分ほどだから、今から出れば多少手間取っても日が傾く前には戻ってこられそうだ。先延ばしにすれば決意が鈍りそうだったので、すぐに出かけることにした。
 アパートの前の道へ出ると、あの倉庫の方をそっと振り返った。倉庫の敷地は低い木立に囲まれていて、ここからでは塗装の剥がれ落ちた屋根しか見えない。駅があるのは反対方向で、倉庫の前を通らなくて済むのはありがたかった。
 両側に田畑が広がる道路は、三百メートルほど先のT字路まで真っ直ぐ伸びていた。そこを右に曲がれば、この春から勤務することになった資料館があり、左に曲がれば駅前に向かうことになる。
 T字路まで進み、左に折れてしばらく歩くと徐々に建物の数も増えてくる。小さな郵便局が建っている角を曲がった先は、駅前の通りになっていた。とはいえ、相変わらず田畑がちらほらと目に付くし、通行人の姿もほとんどない。何しろ、駅前とはいっても一時間に二本くらいしか電

車が走らないところだから、通りが賑わうはずもなかった。それでも、最低限の買い物は済ませられる程度に店は揃っている。
 交番は、小さな駅舎の向かいにあった。その姿が目に入ると、菜美の足取りは重くなった。やっぱり帰ろうかな、と迷いが生まれてくる。
 警察に対して抵抗感があるのは、万引き犯に間違えられたときの不快な経験を未だに忘れられないからだ。同じ高校に通う女子生徒のグループが書店で万引きをしたとき、たまたま同じ店に居合わせたというだけで、菜美も仲間ではないかと疑われてしまった。幸い誤解はすぐに解けたものの、あのときの警官の横柄な態度は今思い出しても腹立たしい。
 交番のすぐそばまで来たところで、菜美の足はぴたりと止まった。もう少しで踵を返しそうになる。しかし、佳織の怒る顔が思い浮かんで辛うじて踏み止まった。それに、あの変質者を放置しておくのもやはり不安だ。
 もう社会人になったっていうのにこの程度のことで怖じ

取っているのか、それとも顔が怖いだけで本当は親切な人なのか、どちらなんだろうと戸惑ってしまう。
「どうしました?」
 警官は小首を傾げながら口の両端を歪める。
 少し間を置いて、それが微笑なのだと気付いた菜美は、ようやく椅子に腰を降ろす気になった。
「で、相談というのは?」
 警官は書類を机の脇へ寄せると、身を乗り出して尋ねてきた。
「それがですね……」
 菜美は先ほど見かけた変質者のことを説明した。
 真剣な表情で聞き入っていた警官は、菜美の説明が終わると、
「さて、あの辺にそんな倉庫があったかなあ」
 と記憶を探るように机の上を睨んだ。
「もしかしたら、もう使われてないのかもしれませんけど……」
「よし、ともかくその現場へ行ってみましょう」

 

晴れた日は、
お隣さんと。

気づいてどうするの、と自分を励まして、再び前に進み始めた。
 交番の前に着き、そっと中を覗き込むと、事務机の向こうに四十代くらいの警官が座っていた。丸く脂ぎった顔に不機嫌そうな表情を浮かべ、何か書類に書き込んでいる姿を目にすると、思わず後退りしそうになってしまう。
 どうしよう、と戸口で迷っていると、ふいに警官が顔を上げた。
「やあ、何かご用ですか?」
 警官の口調は、びっくりするほど優しく柔らかだった。そのくせ、相変わらず恐ろしげな渋面を浮かべている。
「えっと、あの、ちょっとご相談したいことがありまして……」
 菜美がおずおずと切り出すと、
「そうですか、とりあえずまあ座ってください」
 と警官は机を挟んだ向かいのパイプ椅子を手で示した。
 菜美はその場に突っ立ったまま、警官の顔とパイプ椅子を見比べた。この人は不愉快なのを我慢して丁寧な態度を

 警官はそう言うと、菜美を促して交番を出た。入り口の
ガラス戸を閉め、「パトロール中につき留守にしています」と書かれた札をぶら下げる。
 どうやらこの警官は本当に親切な人らしいと分かり、菜美の緊張もほぐれた。並んで歩きながら元来た道を引き返していく。
 お喋り好きなのか、それとも変質者を目撃した菜美の気持ちを和らげるつもりなのか、歩き始めるとすぐに警官は他愛のない世間話を始めた。引っ越してきたばかりの菜美への巡回連絡も兼ねているのかもしれない。途中で警官は山岸巡査部長だと名乗り、名刺まで渡してくれた。ただ、どれだけ和やかに語りかけてきても、その苦々しそうな顔つきは変わらず、事情を知らない人が見れば警官が容疑者を連行しているところだと勘違いしそうな気がした。
 駅前通りを抜け、しばらく歩いてT字路を曲がると、すぐに遠くの倉庫が視界に入った。
「あ、あれです、あそこの裏手に男がいたんです」
 菜美は立ち止まって倉庫を指差した。忘れていた不安と

緊張が蘇ってくる。
 目を細めながら菜美の指差す方向をじっと見つめていた山岸は、はっと気付いたように声を上げた。
「なるほど、そういうことだったのか」
「どういうことなんです?」
 菜美は訝しみながら、一層険しくなった山岸の顔を見つめる。いや、白い歯を見せているところからすると、笑みを浮かべたのだろうか。
「あれは倉庫じゃないんですよ。いや、ずっと昔に倉庫として使われたこともあったようですが、今は住宅として使われてます」
「ってことは、あの男はそこに住んでるっていうことですか」
 だとしても、裸で外をうろつくような人間となると、やはり不安は拭い去れない。
 そんな菜美の内心を察したのか、
「ともかく、まずは先生にご紹介しましょう。実際に顔を合わせてみれば、何も心配することはないと分かりますか

 

晴れた日は、
お隣さんと。