夜は一緒に散歩しよ  |  davinci

夜は一緒に散歩しよ

 確かに、千秋は楽しそうな顔で絵を描いていることはない。無表情。描いた絵を見せてと頼めば見せてくれるが、自分から見せようとはしない。
 楽しくない。ならば、やることがないから絵を描いているのだろうか。
 卓郎はこの千秋の無表情な仮面を壊してみたかった。絵の話はやめて、話題を変えることにした。
「千秋は、好きな男の子とかいないのか?」
 このぐらいの歳の子なら、そろそろ好きな男の子の一人もいてもおかしくはない。
 千秋はしばらく考えて、卓郎を指差した。真顔で卓郎を見つめながら。
 逆に卓郎の方が面喰らってしまった。
「千秋は、パパのことが好きなのか?」
「ママが、もっとパパを好きだよ」
 千秋は食事を終えると、椅子から下りた。
「ほら、千秋、なにか忘れてないか?」
「ごちそうさまでした。ママ、パパ」

 卓郎が頷くと、千秋は卓郎の部屋にお絵かき帳を持って走っていった。
 千秋の中では、まだ三沙子は生きている。だからこんなときも、千秋は三沙子に気をつかってくれたのだ。大好きな母親に、大好きな父親を譲ってあげたのだ。
 テーブルの上で、遺影の中の三沙子が微笑んでいる。この写真は卓郎が三沙子に頼まれて撮ったものだ。亡くなる三日前だった。
 普段は写真など撮らない卓郎だったが、この日は三沙子が必死に頼んできたのだ。
 私の一番幸せな顔を撮っておいて——そう言って、必死に。
 撮影場所は、三沙子の部屋だ。二階の三沙子の部屋はアクリル絵の具のにおいがいまだに消えない。壁や絨毯に染みついているのだろう。それ以外にもいろいろな画材のにおいが入り混じっている。それは三沙子のにおいでもあった。千秋からは、鉛筆が放つ独特な甘いにおいがする。

 

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 親子は似るものだな、そう思った。

 千秋に絵のことを尋ねると、たまに面白いことを返してくる。
「千秋、これはなんの絵?」
「これはね、足が曲がっちゃってる人」
 確かに、足が曲がった人に見えた。
「ふーん——これは?」
「これはね、顔に穴があいちゃった人」
 確かに、顔に穴が開いた人に見えた。
「お化けか?」
「しらない」
「そうか、名前はあるのかな? そうだな、例えばこれとか」
「ノチロ」
「ノチロ? そうか、ノチロか」
 真っ黒くて細長い、人間のようで人間ではない、なにか。

 そのなにかの絵に、千秋はノチロと名づけた。ノチロだろうがなんだろうが卓郎には黒いカマキリにしか見えない。
「ノチロはね、パパのこと、こうやって見てるの」
 千秋は立ち上がり、上半身をふらふらと揺らせて笑った。
「ここにいるのか。なんだろう、ノチロはパパと友達になりたいのかな?」
 千秋は卓郎の質問には答えず、笑いながらふらふらと揺れていた。ノチロの真似が楽しくなってしまったようだ。
 千秋の世界にはこんな愉快なものがたくさんいるのだ。子供の想像力は果てがない。その想像力を、卓郎は羨ましいと思う。
「じゃあ、ノチロって、ここに名前、書いておこうか」
「いらない」
 千秋はふらふら笑いを止めて、真顔になった。

 

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「でもせっかく名前を決めたんだから、忘れちゃったらノチロがかわいそうだろ?」
「だいじょうぶ。ほら、ノチロもケカケカ笑ってるよ」
 千秋はまたふらふらと揺れて、ケカケカと笑った。

 執筆が順調なときは、時間にも余裕がでてくる。
 空いた時間はなるべく、千秋を連れてドライブに行った。
 千秋がいつも家にいてくれることは本当に有り難い。だが、やはり心配なこともある。千秋が外に出ないのは引き籠もりやニートの兆しなのではないだろうか。
 だが、それは杞憂だったようで、むしろ千秋は父親との外出を喜んでくれた。
 自分にとっても良い気分転換になるので、仕事の合間を見てたびたび出かけるようにしていた。当てがあるときもあるし、ないときもある。なるべくなら千秋が喜びそうな場所に行った。

 遊園地やデパートの玩具売り場といえば子供は誰でも行きたがる場所だが、千秋はそういう場所には興味を示さない。その代わり人気のない寂しい林道、うらびれた神社などを車で通りかかると停まって欲しいとせがむ。卓郎もだんだんと千秋の好みがわかってきた。
 晴れた日よりも曇りを好むし、昼間よりも夜を好む。人目がなく、薄暗い静かな場所。そして、卓郎が決して一人では歩きたくないような場所を好む。
 この日もドライブの帰り道、車のほとんど通らない峠道で千秋は降りたがった。嫌な予感がしたが車内で千秋が暴れだすので仕方なく道路脇に車を停める。するとまるで爬虫類のような声をあげながら、千秋はお絵かき帳と色鉛筆を持って車から飛び下りてしまった。
「危ないから急に飛びだしちゃだめだぞ」
 そんな言葉も耳には入っていないようだ。
 空はすっかり陽が落ちて群青色になっていた。見下ろせば街の夜景が美しい。

 
 

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 しかし千秋はせっかくの絶景を無視するように、曲がった道路標識、今にも道路に倒れてきそうな朽ち木、ひしゃげたガードレールなどの間を行ったり来たりしている。
 迷いに迷った挙句、ひしゃげたガードレールの前に決めたようだ。
 かなり強い衝撃を受けたのだろう。ガードレールの支柱が数本抜けてなくなっている。車に乗っていた者は無事では済まなかっただろう。
 案の定、茶色く萎れた花束、封の開かれていない煙草、空の哺乳瓶などが置かれていた。
 つまり、いかにもそこで人が死にましたよ——というような場所を千秋は好んで選ぶのだ。千秋が絵を描いている場所が自殺の名所だった、と後になって知るということも少なくない。
 きれいな花を描いていても安心はできない。ふと千秋の足もとを見ると酒瓶に菊が挿してあったり、萎れて変色した花束が置かれていたりする。

 その「誰かのために置かれた花」とセットで、鼻がもげてぶら下がった顔だとか顎がぐしゃぐしゃに潰れている顔を描くので、叱るにも叱れないという始末。
 あまりに場所が良すぎると、千秋は嬉しさのあまり変な鼻歌まで歌い始める。
 この鼻歌は我が子ながら薄気味悪いと思う。幼稚園ではこんな歌を教えてはいないだろう。壊れたオルゴールのように急に音程がガタガタと狂う、リズムが一定しない鼻歌。
 そうなったらもう卓郎には止められない。千秋は一点を凝視したまま、次から次へと不気味な絵を描く。卓郎の目には映らないものを。
 寂しい峠でも車がたまに通る。千秋が道路に飛びだしてしまわないように隣で一緒に座っていると、ごくたまに通り過ぎる車がわざわざ速度を緩めて窓から運転者が顔を覗かせたりする。当然だろう。陽も落ちて街灯もポツンポツンとしかない寂しい峠で親子が二人、道の脇でしゃがんでいるのだから。

 

 なんでもないんです、という笑顔混じりの顔を向けると、猛スピードで車は去っていく。
 千秋はそんなこともお構いなしに、街灯の少ない薄暗い道路の端っこで絵を描き続ける。
 このぐしゃぐしゃのガードレールを見て、千秋はどういうイメージを広げているのだろうか。
 千秋がこの日に描いた四枚の絵に、卓郎はタイトルをつけてみた。
「頭が割れた女」「くにゃくにゃのお爺さん」「赤と白のあしゅら男爵」「捩れた赤ん坊」——。
 ここで四人が死んだ。そう思ってしまうような絵だった。

 千秋は霊のようなものを描いているのかもしれない。
 卓郎が強くそう感じたのは、七月十三日、三沙子の一周忌だ。
「すごいっ、ねぇねぇ、すごいすごい!」
 車が墓地に着いた途端、千秋は珍しく大はしゃぎし

始めた。窓から身を乗りだし、眼前に広がる墓石群を見て興奮している。頭を左右に振り、唾をいっぱい飛ばして早口でなにかをペラペラと喋り始める。
 千秋ほどの子供にとって、墓地は異世界のように感じるのだろう。大人から見れば墓場なんてたいした場所ではない。死んだ人の燃えカスが納まっていて、その上に重石を載せただけのつまらない場所だ。
 だが千秋にとっては違った。
 文字の刻まれた石がどこまでも続き、その石と石の間に見える色鮮やかな花や昇り立つ白い糸のような煙。時が止まったような静寂。
 千秋を興奮させるような材料はいくらでも揃っていた。千秋にとって、ここがどんなに広大な幻想地に映っているのだろう。
 街なかにある墓地ならこうはいかないだろう。
 わざわざ郊外の墓地を選んだのは、空いていたからという短絡的な理由ではない。三沙子が自分の墓を選ぶならきっとこういう静かな場所だろうと思ったからだ。

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夜は一緒に散歩しよ

 駐車場には見覚えのある二台のワゴン車が停まっている。三沙子の親戚ももう来ているようだった。
「いーっうーっいーっ」
 千秋は興奮のあまり、両手を前に出してぴょんぴょんと墓と墓の間を器用に飛び跳ねている。映画に出てくるキョンシーのようだ。
「千秋っ、危ないから戻ってきなさい」
「まあまあ、あんなに喜んでくれてるんだから、いいじゃないか」
 三沙子の兄の正一が微笑ましげに千秋を見つめながら言った。
 正一は体育会系のがっしりとした体格の男だ。学生時代には水泳で国体にも出たことがあるらしく、今も逆三角形の体形を維持している。
 その隣で同じように千秋を見て笑みを浮かべている正一の妻ゆかりは、折れてしまいそうなぐらいに細い、スタイルの良い美人だ。
「あのくらいのときが一番ヤンチャなんだよな。うちの瞳が小さい頃なんて、親父の一周忌の日、ずっと泣

きわめいておさまらなかったんだよ。後で聞いたら、つまらなくて泣いてたらしいがな」
「子供ってそういうもんですよ。あ、そういえば今日は瞳ちゃん、お留守番ですか?」
「まあな。もうすぐテストだし、置いてきたんだよ。おとなしく勉強しててくれりゃいいけど」
「もう中二でしたよね。瞳ちゃんなら、さぼって遊びに行くなんてことないでしょ?」
「そうでもないんだよ、なんせ、モテるからな」
 正一はニヤリと笑い、それをゆかりが肘で小突く。
「まあ、それは冗談として」
 正一は少し小声になる。
「この前なんだが、瞳の仲の良かった友人が交通事故で亡くなってな。ひどく落ち込んでいるんだ。それで墓地に連れてくるのもどうかなって思ってさ。まあこう言っちゃなんだが、こんなときにテストがあって助かるよ。なにかに集中することがあれば、その間は亡くなった友達のことも忘れられるだろうしな」
「そうでしたか」

 

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 そこで千秋はお絵かき帳を広げ、いつものように色鉛筆を自分の周りに並べる。
 正一は千秋を刺激しないようにそっと後ろから近づき、千秋の横にしゃがみ込む。小さく頷きながら千秋に笑みを向けている正一だったが、それも次第に変わっていった。不安げな顔になり、急に周りをキョロキョロと見回し始める。そして強張った笑みを浮かべ、また千秋を刺激しないようにとそっと立ち上がり、卓郎達の元に戻ってきた。
「卓郎くん、いいかな」
 正一は他の親戚が気づかぬように小さく手招きする。他の親戚達は三沙子の墓前で、あーでもないこーでもないと取り留めのない話をしている。
「どうしました?」
「いつも、ああいう絵を?」
 想像していた絵とはだいぶギャップがあったのだろう。正一は面白いぐらいの反応を見せていた。
 卓郎はそっと千秋の元まで歩き、後ろに立って覗き込む。

 ゆかりは小さく溜め息を吐き、目を細めて正一を見る。
「瞳も千秋ちゃんみたいに夢中になれることがあればいいんだけど、この人に似たのか無趣味でね」
 ゆかりの言葉に、正一は困ったような笑顔を見せた。
「高校に入ればきっとなにかが芽生えてきますよ。うちの千秋だってこれから先、どうなるかわかったもんじゃないです」
「いやいや、三沙子の娘なんだ。きっとすごい才能があるぞ。あ、ほら、将来の天才画家がさっそくポイントを見つけたようだ」正一は指差した。
 千秋は他人の墓前にチョコンと座っていた。
 空のワンカップのガラス容器が幾つか置かれているだけで他の供え物もなく、所々に鳩の白い糞が垂れて干からびている。墓石の下部は苔むしていて、しばらく誰も訪れていないのだろうとわかる。墓自体も随分と古いもののようで風雨に晒されて朽ちてしまったように細長く、まるで幽霊のような墓石だった。

 

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あまりにも不気味なのだ。子供の想像力はすごいものだが、実際にこれを全部頭の中に創りだしているとしたら、確かに少々心配になる絵だ。
 そんなことを話している間にも、たった今、千秋は赤い汁を全身から滴らせた人型を描いた。
 お絵かき帳に描かれているものはすべて人ではない色をしており、手足を引き摺り、頭を垂れ、それでいてどこか人の面影を残している。墓場で描くには余りに不気味すぎる絵ばかりだった。
「これは、みんな誰なんだい?」
 正一がそっと、後ろから千秋に問う。
 千秋は、待ってましたとばかりに指を差しながら答えた。
「キュウラ、ハタガイ、イシジカ、えーと、ツツニ、コンドウミタナキ、それからね——」
 意味はわからなかったが、人の名前に聞こえなくもなかった。
 正一はなんともいえない表情で卓郎を見た。

 千秋は一心不乱に色鉛筆を紙の上で走らせている。手馴れた速さというよりも、なにかに追われているように焦りながら描いていた。
 お絵かき帳に描かれているのは不揃いに並ぶコンニャク。それは抽象化された墓のようだった。そのコンニャク墓の周りに、緑や灰色の人間がうな垂れて浮かんでいる。地面からは真っ赤な女の顔だけが飛び出ている。逆さまになった女が木からぶら下がっている。
 顔はどれもノッペラボウだが、千秋はちゃんと性別を描き分けていた。女には乳房と長い髪の毛があり、男には男性器があった。このノッペラボウたちは明らかに人をモチーフにして描かれていることがわかる。しかし、人ではない。
「自分が子供の頃、どうだった? こんな絵が描けたか?」
 正一が小声で言った。それは千秋の絵が上手いということを言っているのではない。子供が描くにしては