夜は一緒に散歩しよ  |  davinci

 
 
Shiro Kuro

夜は一緒に散歩しよ

 
黒 史郎

 
 幽ブックス ためし読み      

 
 
 
 
 

黒 史郎

夜は一緒に散歩しよ

 
 

幽ブックス
ためし読み

※実際の書籍は縦書きです。横書きではありません。
BCCKSためし用にデザインを変更しております。

横田卓郎は妻を亡くし、娘の千秋と二人で暮らしていた。妻の死後、千秋は奇妙
な絵を描くようになる。「青い顔の女」ばかりを描くようになった千秋は、その
絵の顔を「ママ」と呼び、描くことに執着する。そしてもう一つの執着。それは、
夜の散歩だった。

じわりじわりと忍びよる恐怖。都市の狭間に蠢く影が、ひとり娘を侵食してゆく。
第1回『幽』怪談文学賞の長編部門大賞受賞作。
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このブックでは、実際に発売されている書籍の一部をお読みいただけます。
BCCKS用に読みやすくレイアウトしたものであり、実際の書籍の見た目とは異なります。

Shiro Kuro

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はじまり

 

 ここを渡ればすぐに自分の家に着くのに、帰りたいという気持ちはない。
 座った自分の横に焦げ茶色のかたまりが落ちている。干からびた犬のうんこだ。白い毛が混じっている。
 死にたくなった。なぜか、今すぐにこの犬のうんこの横で、死にたくなった。
 陽がずんずんと沈んでいく。暗くなったら、死のう。そう決めた。
 ちりんちりん。
 ちりんちりりん。
 少女を驚かせないようにと気づかった優しい音。
 振り向くと、くたびれた恰好のおじさんが自転車に跨って自分を見つめている。背が小さくて撫で肩で猫背。優しい笑顔だった。顔はほとんど影になって見えなかったが、深く刻まれた笑い皺と両端が吊り上げられた唇だけは見える。ほとんど白髪の髭は陽を受けてちらちらと輝いている。

 化け物、幽霊、死神——ろくなあだ名がない。
 少女はもう涙も出なくなっていた。慣れてしまったのだ。
 小学校からの帰り道。この汚れた川の砂利道で石と罵声を投げられながら下を向いて黙って歩く。石が頭に当たるたびにポコン、ポコンと面白い音がする。どうしてこんな目に遭うのだろう。冷静に考えてみた。
 誰とも話さない。誰とも遊ばない。怒りもしないし笑いもしない。一人で物陰で絵を描いているだけ。なのにどうして、みんな自分を避け、笑い、石を投げるのか。
 気がつくと、さっきまで笑いながら石を投げてきた同級生の男の子達はもういない。飽きて帰ったのだろう。
 やっと静かになった。
 少女は砂利道に膝を抱えて座り、どぶ臭い川を眺める。
 川を渡る細い水路橋。

夜は一緒に散歩しよ

 

 少女は慌てて絵を拾い集める。面白くて変わったたくさんの絵がある。裏にはたくさん文字が書かれている。少女が読めない字もあった。拾い集めながら少女はわくわくした。おじさんは、こんな自分になにを見せてくれるんだろう、と。
 早く拾い集めないと空が暗くなる。暗くなったら、おじさんの見せてくれるものが見られなくなる。
 それに暗くなったら、自分は死ななくちゃいけない。でもまだまだ暗くはならない。
 絵はばらばらになっているけど、きっとこれを全部拾い集めたら楽しい物語になるのだ。そう信じて、少女は絵を拾い集めた。
 ぎしんっ。
 今度は、まったく優しくない音がした。
 水路橋の下でなにかがぶらりぶらりと揺れている。まるで秋の風に踊る蓑虫のようだ。それがなにか確かめたくて、少女は土手を下りた。

 この人は世にも珍しい、自分に対して優しい人なのかもしれない。だって、自分を見てあんなに優しい笑顔を見せてくれている。
 少女は吸い寄せられるように、このくたびれたおじさんの影に魅入ってしまう。
 ——見るかい?
 おじさんは痰の絡んだ声で言った。
 なにを——とは、おじさんは言わなかった。それでも少女はその言葉に首を縦に振った。
 おんぼろ自転車の後ろの荷台には木で作られた箱が積んである。手垢でどす黒くなった木箱は、相当使い古されたもののようだった。この中にあるものを見せてくれるんだろうか。
 おじさんは自転車から下りると、箱を括っていたロープを解く。自転車の荷台から箱が落ちて簡単に壊れた。箱の中にはたくさんの絵が入っていた。箱に納まっていた絵は全部、ばらばらに散らばってしまう。
 こんな大変なことになっているのに、おじさんは笑っている。

夜は一緒に散歩しよ

 さっきまで自分に優しく微笑みかけてくれていたおじさんが、水路橋からぶら下がっている。内臓まで出てしまいそうなほどに伸びた舌が、見る見る青黒くなっていく。鼻からもカーキ色の汁がびだびだと流れていた。
 少女はこの不思議な光景に目が離せなくなった。
 人が、人ではなくなった。
 瞼は大きく見開かれたまま、グルグルと黒目が忙しく動いている。顔が見る見る紫色になっていく。手足をバタつかせ、滑稽な動きで暴れている。面白い踊りだった。
 少女は吊り下げられたおじさんが動かなくなるまで、じっくりと観察した。動かなくなったと思ったら、おじさんはおしっこを漏らした。ズボンに染みが広がっていく。
 おじさんが「見るかい?」と言ったのは、これなのだろうか。
 少女はランドセルからお絵かき帳と色鉛筆を取り出した。

 
 
 
 
 

 
 
            一

 

夜は一緒に散歩しよ

 そんな彼を、千秋はハゲカンと呼んで恐れ、忌み嫌っていた。
 楠木はなぜか奇数日にだけ家に来る。だから千秋は奇数日は朝から落ちつかない。怖がる理由を千秋に聞くと、禿げているからだと言う。
 まさかそんな理由があるとは思わない楠木は、たまに千秋の名前を呼びながら家の中を探し回ることがある。それが余計に千秋の恐怖心を煽った。
 千秋の恐れようは深刻なもので、仕舞いには大声で泣き出してしまう。かといって楠木にかつらを被れとは言いづらい。そうでなくとも、彼は禿げていることを気にしている。同じ編集部の人間にそれを酒の席のネタにされたために、三日間も無断欠勤したことがある。
 だから楠木が来る日は千秋によく言い聞かせておかなくてはならない。
「今日はこれから楠木さん来るけど、ハゲカンって言っちゃだめだよ。ハゲカン禁止、いいな?」

夜は一緒に散歩しよ

 

 千秋が奇妙なものを描くようになったのは三沙子が死んでからまだ一年も経たない頃。
 一番初めに描いたものは、四つん這いの「仮面ライダー」だ。

「ねぇパパ、今日はハゲカン来るの?」
 卓郎の部屋に、不安げな表情の千秋が入ってくる。
 リビングに掛かっているカレンダーには、「彼」が来る日に印がついている。それを見て不安になったのだろう。
 ハゲカンとは、週に何度か家にやって来る楠木という男に対して千秋がつけた呼び名だ。その呼び名の通り、頭の禿げあがった四十過ぎの中年男だ。
 卓郎が作家としてデビューした頃から担当としてつき、今まで生き死にを共にしている。横田タクロヲという作家がホラー小説界でここまで名が知られるようになったのは楠木の手腕によるところも大きかっただろう。

 千秋は自分の口を両手で塞ぎ、吐きそうな顔で頷いた。
 いつもはこう言っておけば、千秋は部屋から出てこない。ノックをしても返事もしないし、絶対に鍵を開けない。軽い居留守である。楠木が帰ったことを卓郎がドア越しに伝えると、ようやく部屋から出てくる。
 しかしこの日は違った。千秋は思いがけない行動に出たのだ。
 予定より一時間も遅れて来た楠木は、悪びれた様子もなくすぐに仕事の話をし始める。
 毎度のことながら汗臭かった。以前から彼の体臭は気にはなっていたが、最近になって臭さが増した気がする。
「景気がいいですな」
 銀歯だらけの口を開いて大笑いする楠木。
 十二冊目に出した長編小説が早くも全国書店の月間ランキング一位に輝いたのだ。
 こういう報告は当然、卓郎にとっては嬉しくてめでたいことだ。楠木は卓郎以上に喜び、それを不快な形

で表現する。耳障りな大声、生ゴミのような口臭、スプリンクラーのように振りまかれる唾。笑いと共にこれらが半径五十センチ以内に振りまかれる。楠木が編集部や女性作家の間でとびきり評判が悪いのもわかる気がする。
 会うと最低でも五回はこの笑いを聞かねばならないが、今日はすでに十回は聞いている。楠木がそんなに機嫌が良い理由はもう一つある。
 千秋が楠木の隣に座っているのだ。
 これには卓郎も驚いた。いつもは身を潜めて天敵が帰るのを待っている千秋が、眉間に皺を寄せながら五センチも離れていない場所に座っている。
 楠木が大笑いするたびに千秋に臭い息や唾がかかっているかと思うと気が気ではない。
 卓郎としてはただ例の言葉を本人の目の前で言わないでいてくれれば良かったのだが、なにを勘違いしたのか千秋は一人我慢大会を始めたのだ。十二色セットの色鉛筆と子猫が表紙のお絵かき帳を膝の上に乗せて。

夜は一緒に散歩しよ

 
 

こんな真剣に絵を描いている姿を見るのは初めてだった。
「できたかな」
 楠木が覗き込もうとすると千秋は慌ててお絵かき帳を隠した。
「あらら、どうしちゃったのかな、みせて、みせて」
 絵を見せろと汚い鬚面を千秋の顔に近づける。
 限界だったのだろう。千秋はお絵かき帳を投げだした。お絵かき帳は開いたまま投げだされ、卓郎と楠木はそこに描かれたものを見た。
 それはどう見ても楠木ではない。四つん這いの奇妙な生き物だった。
 黄緑色に塗り潰されたその生き物は、昆虫の複眼のような目が二つあるだけで、それ以外は鼻も口もない。頭部には大量の黒髪が生えていて、その隙間から二本の触角のようなものが立っている。
「仮面ライダー?」
 楠木は卓郎の持った第一印象と同じ名前を出した。

「千秋ちゃん、パパ、すごいよねぇ」
 楠木が油っぽい顔を近づけてくると、千秋は露骨に嫌な顔をした。しかしそれでも、その場を離れようとはしなかった。
 千秋は聞こえるか聞こえないかという小さな声で呟いた。
「さらさらバッタ」
 お絵かき帳を広げ、色鉛筆のケースを開く。
「さらさらバッタ」
 千秋は再度、同じことを呟くと、絵を描き始めた。
 その視線、座る位置。どう見ても、楠木を描いているようだった。
「おっ、おじさんを描いてくれてるのかな?」
 楠木はヘラヘラと笑いながら、顎に手を当てるなどしてポーズをとり始める。稀に見るひどいモデルだった。
 しかし千秋の目は真剣そのものだ。お絵かき帳と楠木、交互に視線を振らせ、忙しげに鉛筆を走らせる。

夜は一緒に散歩しよ