山本くんには 友達がいない  |  davinci

 
 
 
 

 
 

山本幸久

第10回

10

山本くんには 友達がいない

 
 
 
Yamamoto Yukihisa

 
 
 
 

 
 
 
 
 
山本幸久

前回までのあらすじ

中学受験生の山本くんは、毎週日曜日、塾に通う。唯一の楽しみはマンガを読むこと、そしてマンガのストーリーを考えること。学校にも塾にも、友達がいなかった山本くんだが、いつも「合格祈願」のハチマキをしている南斗と、黒須というマイペースな少年と知り合い、マンガ好きという黒須のお姉さん・福子の働く店へみんなで訪ねたりと、少しずつ山本くんの日々が変わりだす。
一方で、中学受験の雰囲気がせまってきて、学校でも、塾の話を聞かれることが増えてきて……。

 
 
 
 
 
Yukihisa Yamamoto

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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山本くんには友達がいない

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

山本くんには 友達がいない

 
 
 
 
 
 
 
 
 
       第10回

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

山本くんには 友達がいない

づけた。台風が北上していることも山本くんを勇気づけた。関東上陸の可能性もあり。どのチャンネルの天気予報もそう告げていた。
 今朝、登校時には雨が小降りだった。このままでいけばプール開きは中止かもしれない。山本くんは胸中でほくそえんだものの、一時間目の授業中に雨は止んでしまった。
 灰色の雲は空に居座ったままで、気温はあがらず、肌寒い中、三時間目、プール開きは実施された。六年生全クラス合同だ。
「水の中のほうがあったかいだろ」
 体育教師は無責任なことを言い、二十五メートルを繰り返し泳ぐよう生徒達に命じた。「ピッ」ホイッスルの音がすると、男子達が一斉にプールへ飛び込む。水しぶきが山本くんにかかった。
「はい、つぎっ。すぐ並んでっ!」
 体育教師が威勢よく命じる。山本くんは、かちかちかち

 寒い。寒い。寒くてたまらない。
 山本くんは震えていた。
 かちかちかちかち。上下の歯がカスタネットのごとく、音を打ち鳴らした。いくら歯を食いしばったところで無駄だった。唇は紫になっているにちがいない。鏡を見なくてもわかる。
 山本くんの人生は楽しみよりも憂鬱なことのほうが多かった。夏になるとそれがひとつ増えた。水泳である。山本くんはスポーツ全般、苦手だが、水泳は最たるものだった。野球や跳び箱などはできなくても、人前で恥をかくだけですむ。もちろんそれもいやでたまらなかったが、水泳はさらに命を落とす可能性があった。事実、昨年の夏、山本くんは体育の授業中、プールで溺れかけ、体育教師に救ってもらった。
 ということで七月になると、いつにも増して山本くんは雨を望む。今日もそうだ。昨夜から雨になることを念じつ

は自然と水に浮かぶものなんだ。以前、理科の授業のときに、先生が言っていた。ほんとうにそうなのだろうか。水に飛び込んだあとはいつも疑問に思う。いまもそうだ。どんどん沈んでいくばかりである。
 んぼがぼがばぼごがぼがぼぼぼ。まわりのひとが泳いでいく音が聞こえてきた。山本くんはまず、足だけをばたつかせた。それから右腕をうしろから前へ、大きく振ってみる。つぎに左腕。右左右左右左右左。だがちっとも力が入らない。泳いでいるというより、もがいていると言ったほうが正しい動作であることが自分でもわかった。水面を目指すものの、沈んでいくばかりだった。ぼくは人間じゃないのかとさえ思う。このままでは息継ぎができない。
 限界だ。山本くんは水底に足をついた。だがそうしたところで助かったわけではない。水面が鼻と口のあいだスレスレで、空気を吸うことは非常に困難だった。しかも雨が降っていた。プールに飛び込む前はほんの小降りだったに

 

山本くんには 友達がいない

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

かちと歯を鳴らしたまま台の上に立つ。
 山本くんは二十五メートルさえ満足に泳げなかった。それでも一本目はどうにか泳ぎ切れた。二本目は三回、足をついた。それでもゴールに行き着くことはできた。ついに三本目。からだが震えるのは、寒さのせいばかりではなかった。これから罰を受ける罪人の気分になってきた。おおげさではなく、山本くんは本気でそう思っていた。ぼくの人生はあと数分でおしまいだ。ぽつぽつ、と頬に雨粒があたった。ふたたび降りだしてきていた。
「ピッ」運命のホイッスルが鳴った。
 山本くんは泳ぐ距離が短くなるように、できるだけ遠くへ飛ぶよう努力した。はたしてその努力が報われたかどうかはわからない。たぶんそうでもないだろう。水面で腹を打った。全身に痛みが走るが、こらえらない痛さではない。両手を前へ突きだし、しばらく水中でじっとする。人間は水より軽いんだよ。だからなにもしなくても、からだ

いるだろう」体育教師が叫んでいるのが耳に入ってきた。
「きちんと列をつくって順に退場しなさい。ひとに雷が落ちるなんて、何百万分の一だっ。心配することはない」
 さすがの雨にプール開きは中断するらしい。みんな、教室へ戻るのだろう。
 ぼくは? 山本くんは焦った。ぼくを置いていかないで。
 また世界が白くなった。ばきりきりばきばききき。雷鳴が轟く。
「きゃあぁあああああ」
 今度は女子だけではなく、男子も叫んでいるようだった。
 山本くんは自分がプールではなく、大海原で遭難している感覚に見舞われた。
 伊豆に別荘があるんだ。
 もがいているあいだ、なぜか突然、黒須の言葉が脳裏に

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

もかかわらず、いまは豪雨になっていた。底を蹴って、もう一度泳いでみようと試みたが、できなかった。からだが横にならないのである。泳ぐのをあきらめ、歩いていこうとした。ところがこれもうまくいかない。ぴょんぴょんとその場で跳ねるだけで前進しないのだ。しかもどうした加減か、くるくるとコマのごとくまわってしまったうえに豪雨のせいで、どちらがスタートでゴールなのか、さだかでなくなってきた。いっそのこと、助けて、と声をあげたい。でもそれはできない。恥ずかしいからだ。昨年、溺れたときはみんなに笑われた。カナヅチとかトンカチとか、からかわれたものだ。あんなことはもう勘弁だ。などと考えているうちに、鼻に口に水が流れこんできていた。
 もう駄目だ。そのとき世界が白くなった。
「きゃあぁあああ」
 女子の悲鳴が聞こえる。雷だ。
「慌てないでっ。プールサイドで走らないといつも言って

浮かんだ。
 そのすぐ裏が海なんだ。うちの家族、毎年、いくんだけどさ。よかったら、山本もこいよ。姉貴がおまえも誘ったらどうだって言うんだ。
 ぼくもいっていいかな。
 南斗が口を挟んでくる。
 受験生にはそんな余裕はないんだろ。
 黒須がからかうように言う。
 環境を変えて勉強すると、能率があがるって、塾の先生が言っていたんだ。それを立証するのにちょうどいい。
 したり顔で南斗はひとりうなずいた。
 うちの別荘きて、受験勉強するつもりかよ。
 だったらなにをするのさ。
 バカンスだよ、バカンス。
 黒須の声が遠ざかる。とその瞬間、だれかにからだをつかまれたのがわかった。ただし相手がだれかたしかめる余

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山本くんには 友達がいない

 

裕はなかった。それでも思わずしがみつこうとすると、「そのままにしてて」と耳元で怒鳴られた。
「だいじょうぶか」
 体育教師の声がべつのところから聞こえてくる。
「だいじょうぶです。山本くんをひきあげてやってください」
 遠ざかる意識の中、自分を助けてくれたのがだれか、山本くんにはわからなかった。

「きみ、去年も溺れていたよね」そう言う保健の先生の眉間にはしわが寄っている。中年のおばさんだ。母親と同い年くらいにちがいない。「ほんと、こまったものね」
「すいません」
 山本くんはいまさっき、目覚めたばかりだ。水着のままだったが、全身を二枚のバスタオルでくるまれていた。着替えをすませると、保健の先生から水銀の体温計を渡され

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

山本くんには 友達がいない

 

 幼い頃にはそれが不思議でならなかった。自分でできないことを他人にもやらせようというのは、いささか無理があるのでは、といまでも思う。
「でも、あの」
「なに?」
「泳げないのは、ぼくのせいですから」
 保健の先生は目を瞬かせていた。やがて「ちっ」と舌打ちをした。これにも山本くんは驚いた。そんなことをするおとなが、しかも女のひとが、漫画や小説の中に登場するものの、ほんとうにいるとは思いもしなかったからだ。しかもこんな身近で、仮にも先生がだ。
「そうやって、なんでもおとなの言いなりになっちゃ駄目だよ」
 そういうことではないように思う。しかし山本くんは保健の先生の視線を避けるため、うつむいた。
「体温計」ぶっきらぼうな声がした。山本くんはおとなし

た。一応、計ってと言われ、いまは腋の下に挟んでいる。
 ばたばたとえらい音がする。なにかと思ったがすぐに気づいた。窓に雨が叩きつけているのだ。恨めしいお天道様だ。もう少し早くこうなってくれさえすれば、山本くんもプールで遭難することはなかった。
「きみがあやまる必要はないわ」保健の先生は体育教師の名を口にした。「彼に問題があるのよ。自分がスポーツできるものだから、できない人間の気持ちが理解できないのよね、きっと。だからあなたみたいな子に無茶をさせて、結果、こうしておなじまちがいを繰り返すことになる」
 なるほど、そういうものか。山本くんは納得した。それと同時に先生が他の先生を避難がましく言うのを聞いて驚きもした。母親が親戚のおばさんについて、父親に文句を言ったことを耳にしたときとおなじ気持ちになる。他人の悪口を言ってはいけない、喧嘩をしてはいけない。そういうおとな達も他人の悪口を言い、喧嘩をする。

 

山本くんには 友達がいない

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 ミートソースだった。
 訊ねたかったのは給食のことではない。しかしにわかに空腹が襲ってきて、椅子に腰をおろすと、無言で麺の入った半透明の薄い袋を破っていた。
「山本くんってもしかして」背後で保健の先生の声がした。山本くんは麺をミートソースの入った皿に、入れるというより落としている最中だったので、ふりむくことができずにいた。「代々木上原進学教室に通っている山本くん?」
 ちがいますと嘘をつく度胸はなかった。
「ああ、はい」
 それにしてもどうしてみんな、そのことを知っているのだろうと山本くんは戸惑う。
 先日もべつのクラスの溝口が、これから代々木上原進学教室に通うつもりだが、どれくらいお金がかかるものか訊ねてきた。その日の夜、溝口自身ではなく、彼の母親が山

くさしだした。
「三十五度二分。低いわね。いつもこんななの?」
「だいたいそんなもんです」
 保健の先生はぶんぶん体温計を振り回しながら、「教室、戻っていいわよ」と言った。
「あの」
「なぁに? どっか痛い?」
 実際、お腹が痛かった。ただしそれは中ではなく外だ。飛びこんだとき、水面で打った痛みがまだ残っているだけである。
「いえ、そうじゃなくて」
「そうだ。きみの給食、ここにあるよ。もう五時間目はじまっているけど、戻る前に食べていったらどう?」
 部屋の隅にあるスチール製の机の上に、アルミの食器が置かれているのが見えた。山本くんは立ち上がり、のろのろとそちらへむかった。