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 今夜の安西さんの「初めて」は、青空のもとでの初体験だった。当時の恋人と手をつないで草っぱらを散歩しているとき、抑えがたい衝動が湧いてきたのだと安西さんはたいへん懐かしそうだった。
「そらもう、一気呵成に」
 ことに及び切ったといい、
「そのあとの太陽のまぶしかったこと」 
 と、瞑目する。しかし、かぶりを振りながら、
「その相手が今の連れ合いなわけでして」
 とつけ加えるのは、完全に蛇足だ。安西さんは本気で野暮だ。
「……あのころは馬力があったなあ」
 しみじみと回想に入っているようだが、それは、馬力のなくなった現在の安西さんと訳ありになっている女の前でやることではなかろう。いや、馬力がすべてではないけれど。それでも。
「卯月ちゃん」

 安西さんも卯月も煙草は喫わない。
「やだ、安西さん。それ、小物入れ」
 卯月は即座に答えたのだが、安西さんは灰皿に入れてあったピアスを太い指でつまみ上げ、しげしげと眺めている。
「これは、思い出の品ってやつですか」
 うわあ、やだ。過去を詮索したがる男は最低だ。でも、安西さんの詮索の仕方はあんまり野暮なので、卯月の頬はついゆるんでしまうのだった。参ったなあ、このおっさん、という感じだ。それに、安西さんは卯月の過去がどうこういうより、「思い出」自体が好きなのだ。何かにつけ、思い出話をしたがる。「初めて」の話が多いようだ。
 初恋の話はもとより、カラーテレビで初めて観た番組、初めて買ったレコード、初めての取っ組み合いの喧嘩、初めての万引き。安西さんには「初めて」の種が尽きないようだ。
「……矢も盾も溜まらなくなりまして」

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 ねえ卯月ちゃん。安西さんが卯月の肩を揺すってくる。卯月は自分の肩をとても小さいものに感じる。
「コーヒー、入ってますよ」
 つんけんした声を出す。
「馬力もいいけど、じっくり、も、いいもんですよ」
 安西さんが猫撫で声を出した。声音といい内容といい、ことのほか助平に思える。ひひじじいに片足突っ込んでる感じだ。
「その前にコーヒーのみたいっていったじゃないですか」
 腕を引っ張る安西さんに卯月は膨れてみせる。
「夜明けのコーヒーっていうじゃないの、卯月ちゃん」
 知りませんけど、そんな言い回し。だいたい、夜明けまでいたことないじゃないですか、安西さん。終わったら、帰っちゃうじゃないですか。「靴下、どこだ」とか、会社にいるときみたいな声でいうじゃないですか。そのくせ、
ゆきがけの駄賃みたいに、指でちょっと弄(いじ)ってい

くじゃないですか。あれ、できれば、やめてもらいたいんですけど。

 安西さんと深くなったきっかけは、たくさんあった。
 卯月と安西さんは仕事の合間に「あれ、知ってる?」「これ、知ってますか?」とクイズを出し合った。
 安西さんの得意分野は日本語であるらしかった。滅びつつある言葉(死語、あるいは死語すれすれ)を好むようだ。
 普段の会話にも「なかんずく」とか「よっぴいて」などを織り込む。もののいいようも歳のわりには年寄りくさい。老人に見せたがっているようにも思える。
 ところが安西さんの出で立ちは洒落ているのだ。
 もともとスーツ映えのする背恰好に持ってきて、肩の合ったネイビー・ストライプの上着に、ぴんと糊のきいた淡いブルーのワイシャツとくる。芯地の薄いなめらかなネ
クタイは燕脂(えんじ)で小紋柄。文句のつけようがな

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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行に詳しいと自負していた。その田辺氏がデトックスについて、ひとしきり蘊蓄(うんちく)をかたむけた。岩盤浴、はてはホットヨガにまで言及した。全体的に旬からは少々ずれた話題である。
「ヨガをすることを、若い子はヨガるというんですよ」
 と、安西さんにいい、白髪混じりのサラサラヘアを揺すって、卯月に「だよね」とうなずきかけた。卯月は首をかしげて、「さあ」と小声で答えた。
 安西さんはといえば、への字口をつくっていた。ふん、と鼻息を漏らして、こういった。
「要は毒出しってことなんだろ?」
 その通り! デトックスとは解毒のこと。
「毒をすっかり出しちゃ、却ってからだにわるそうだな」
 こっそり吹いた卯月と安西さんの目が合った。安西さんは腕組みして、してやったりという表情をしている。確かに、毒も垢もないひとは、味も素っ気もないだろう。

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

い、と一瞬見とれたら、そのファッションが、卯月には、急にお仕着せに感じられた。
 安西さんのお洒落は奥さんの趣味であり、選びであり、教育のたまもののように思われてならない。奥さんの教育からはみ出すものが、親指シフトのワープロを使いつづけることであり、黴(かび)のはえたような言葉を使うことなのかもしれないと卯月は考える。そうして、それこそが、安西さん本来のお洒落なのではないか。
 卯月は当節流行のカタカナ言葉やお笑い芸人や新種の家電やパソコン用語を「知ってますか」と出題しているが、安西さんは「つまらん」という顔をするきりだった。学習する気が起こらないようだ。卯月の教育にはまったく乗ってこないのである。卯月は、そこが少し嬉しい。自分と妙に馬が合う安西さんの一面は、奥さんに野放しにされた部分の安西さんだと思えるからだ。
 田辺氏が、卯月と安西さんの仕事の合間の雑談に加わってきたことがあった。田辺氏は安西さんと同年輩だが、流

 卯月が安西さんと目が合ったのは二秒もなかった。しかし、時計の針がかっきりと進んだ感覚があった。卯月と安西さんとのあいだに積んだ土嚢(どのう)みたいなものが崩れる音を聞いた気がした。
 最終的なきっかけはハンカチだった。
 たまたまふたりで残業した夜、食事に誘われたのだった。といってもラーメンだ。ただし「めっぽう旨い」と安西さんの注釈はつくが。
 熱い醤油ラーメンを勢いよくすすっていた安西さんは盛大に汗をかいた。上着の内ポケットからハンカチを取り出して、ひたいにあてた。
 そのハンカチが真四角に折り畳まれたハンカチだった。しゅうしゅうと蒸気を噴き出し、折り目をつけたアイロンが見えるようだった。アイロンの持ち手を握る白い手も、卯月には見えた気がした。百貨店の紳士服飾雑貨売場で、シックな幾何学柄のそのハンカチを選び取り、レジに持っていき、「ご自宅用ですか」と店員に訊かれ、「ええ」と

答えた唇も卯月のまぶたの裏を過ぎていった。ラーメン屋を出たら、我慢できなくなった。
「安西さん」
 名を呼んだ。安西さん、安西さん、と立てつづけに呼びかけた。喉がちぎれそうになった。安西さんと呼ぶ声が、夜風を切った。
「そんな声、出さなくても」
 安西さんは少し笑った。了解しましたというふうな、ごく小さな破顔だった。卯月はちょっと悔しかった。安西さんの目が、潮の目だったからだ。
 潮の目という言葉は安西さんから教わった。愛嬌のある目つきのことだそうだ。細くして、こびる目つき。子どもの笑顔。
 あらかじめ遂げられない恋なら、失くさなくて済む。
 奥さんと、不足のない結婚生活を送っているなら、自分が入り込む余地はないはずだ。

 

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田辺氏はいろんなにおいがする。オーデコロンやフリスクや整髪料といった、ひとつひとつは芳香なのだが、混ざり合うとなんともいえず臭い。
「安西さんもたいへんだよねえ」
 卯月のデスクに手を置いて、田辺氏が話しかける。
「そうですねえ」
 相槌を打つ卯月の顔を覗き込む。卯月のデスクに肘をつけ、にやけ顔をこしらえた。その顔を必要以上に近づけてくる。
「いや、実際、たいへんだと思わない? 安西さん。男としてどうよ、みたいな?」
「はい?」
 卯月は顔をかたむけ、訊き返した。田辺氏は「おやー?」と語尾を上げた。腰を突き出し、卯月のデスクに頬杖をつく。「おやおや」とか「それはそれは」とか、いっている。
「はい?」

 ふたりの結びつきは、恋人同士とはちがい、ちょっとやそっとじゃ壊れないほど堅牢で、だから、卯月は安西さんと始めることができたのだった。
 そんなの構わない。
 四捨五入したら五十になるのに安西さんは、わかりやすいひとだった。かれの思っていることが、言葉にしなくても、卯月の胸に伝わってくる。

 安西さんは会社にときどき遅刻してきた。風邪っぽいとか頭痛がするとか、理由はそのたびちがっていた。「実は蒲柳(ほりゅう)の質でして」とのことである。寝坊したんじゃないかなというのが卯月の読みだった。
 きょうも少し遅れて出社するらしい。理由は腰痛での通院である。
 田辺氏が卯月の席に近づいてきた。卯月は事務用品の発注をパソコンに打ち込む手を止めて、鼻をこすった。

 

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 眉をしかめて、卯月はさっきより強くいった。田辺氏が卯月の耳もとで囁く。
「あそこんち、不妊治療やってんだよ」
「……はい?」
 卯月は田辺氏の顔を見た。
 至近距離だったから、卯月の視界は、田辺氏のだらしなくゆるんだ顔でいっぱいになった。
「体外受精」
 奥さんのたまごが採れたら、今度は安西さんのナニを提供して、それをお医者がうまいことやって、子どもをつくるわけ。田辺氏は、ここでようやく卯月から顔を離した。
「それはなんというか、こう、ずいぶん」
 卯月は沈黙するのが厭だったので、急いでいった。がぶりがぶりと心臓が鳴っていた。太く熱いが、他人事みたいな鳴りようだった。
「……たいへんですね」

「ほら、奥さんだって、もう四十三、四でしょ。あせっちゃってんじゃないの?」 
 とくにここ最近、と、田辺氏は顎を引き、卯月のからだを眺め渡した。それからひとつ深くうなずき、
「今ごろ、ひとりで抜いてる安西さんを思うとねえ」
 と、吹き出す寸前のように頬を膨らました。えらの張った顔全体も赤く膨らんでいる。その横っ面を卯月は張り倒したかった。前歯が折れて、血のあぶくを吐かせるまで殴ってやりたい。いっそのこと、石狩湾に沈めてやろうか。二度と浮き上がってこられなくしてやろうか。

 安西さんは、わたしとのときには、用心をおこたらなかった。それは大人のマナーなのだと、卯月は自分に何度もいった。
 先週の木曜、安西さんがアパートにきたとき、花川のおめでたの話をしなくてよかったとも思った。

 

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は実に安西さんらしいと思える。正体見たり。いや、正体なんてとっくのとうに見えていた。安西さんはわかりやすい。
 手洗いの個室にこもり、蓋を下ろした便器に腰掛け、卯月はトイレットペーパーを引っ張って、それをまぶたにあてている。ごしごしとこすったら、ペーパーのかすが目の周りについた感触があったので、乱暴に払う。目もとも、ひたいも、頬も、引っぱたくようにして、払った。
 そんなに子どもがほしかったのか、安西さん。それとも、それも奥さんのいいなりなのか。そんなに奥さんが大事なのか。どっちもそんなに、そんなになのか、安西さん。

 安西さんは昼前に出社した。普段と変わらず卯月に挨拶する。卯月も「おはようございます」と応じた。安西さんは卯月にだけわかる目遣いをしてきたが、それには応えなかった。安西さんは「あれ?」という口のひらき方をした

 不妊治療をするようなそんな手間ひまかけなくても、わたしなら、きっと今すぐにでも安西さんの子どもをうんであげられるのに、と裏返すように思ってみた。
 花川みたいにお腹を撫で回し、「ほら鳩さんでちゅよ」というすがたを瞬時想像する。とにかくまあ、小説みたいによくできた話なの、と前置きし、大団円に至った経緯を一年も会っていなかった知り合いを呼び出し語る卯月自身だ。でも、どんなふうに「大団円」なのかは想像がつかなかった。ならば、安西さんの奥さんが逆上して、この泥棒猫と卯月を罵倒するシーンはどうだ。会社やアパートに乗り込んでくるシーンだ。あたしは絶対に夫とは別れませんからねと金切り声を上げる奥さん。卯月もさけぶ。わたしだって! だって、わたしのお腹には安西さんの赤ちゃんがいるんですから! 
 卯月の頭のなかで繰り広げられる修羅場に、しかし安西さんはいなかった。いたのかもしれないが、カットインしてこない。高みの見物をしているものと思われる。そいつ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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ものの、わりとすぐに元に直った。困ったもんだというふうな笑みを浮かべる。卯月ちゃんはご機嫌斜めときたもんだ、みたいなやつだ。誰にともなく声を張った。
「病院、ばかに混んでましてね。なんだって病院というところはいつもあんなに混んでるんでしょうねえ」
 田辺氏が卯月にちらと目を寄越してから、「混んでましたか」と安西さんに念を押した。
「安西さんもたいへんですねえ」
 愛想よくつづける。
「ね、安西さんはたいへんだよね」
 と、卯月にいった。
「そうですね」
 卯月はうなずいた。いかにも「派遣さん」といった、礼儀正しいうなずきようだった。
「そうなんですよ」
 安西さんが腰をさすりながら、卯月を振り向く。
「だから、優しくしてくださいよ」

 照れたような微笑は、厚顔と見えなくもなかったが、卯月の胸中は奇妙に静かだった。田辺氏が自席に戻ったのを確かめて、安西さんが「うへえ」というような戯(おど)け顔を卯月に向ける。卯月は頭をゆっくりと横に振ってから、安西さんとおんなじ顔をしてみせた。眉を下げ、丸い目をシジミみたいにしょぼしょぼさせて、「うへえ」。
 こんな終わり方では、小説にならないと卯月は思った。もとよりノベライズに適するような、そんな恋はしたくなかった。見損なってもらっちゃ困る。だって、わたしは、「そんなの構わない」と思って始めたのだ。嘘じゃない。掛け値なしだ。何度でもいう。そんなの、ちっとも、構わないと思っていた。
           ー END ー

Kasumi Asakura

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  • 著者:朝倉かすみ
作 成 日:2008 年 10月 01日
発   行:朝倉かすみ
BSBN 1-01-00018320
ブックフォーマット:#429
 

1960年北海道生まれ。北海道武蔵女子短期大学卒業後、さまざまな職を経験。2003年『コマドリさんのこと』で第37回北海道新聞文学賞を受賞。04年『肝、焼ける』で第72回小説現代新人賞を受賞。今年は『田村はまだか』『タイム屋文庫』『夫婦一年生』と立て続けに新作を上梓するなど、大活躍中。

朝倉かすみ

 
 
 
Kasumi Asakura

 

だったら、片思いのままでいい。それがわたしの道なのだと卯月は決めた。そう決めたほうが楽だったからだ。あらかじめ遂げられない恋なら、失くさなくて済む。花川みたいに、めりはりのきいた恋愛はわたしには不向きだ。

 
 
 
朝倉かすみ