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Kasumi Asakura

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朝倉かすみ

 

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読み切りアンソロジー「はじめての失恋」
シリーズです。新しい小説が今後も登場してきますのでお楽しみに!

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あらかじめ遂げられない恋なら、失くすことはない片思い道を歩んできた、卯月・三十二歳、恋の行方は……

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

 
 
 
 
朝倉かすみ

 
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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

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 とにかくまあ、よくできた小説みたいな話なのと花川千里が倉田卯月に語り始めた。半年後に入籍する男とのなれそめだった。
 札幌から釧路に向かう列車の指定席で隣り合わせて、ふたことみこと言葉をかわしたら恋に落ちたそうである。宿泊先も同じだった。ビジネスホテルだ。一泊五千三百八十円のシングルルームは簡素この上なかったが、そんなことは、ふたりのホットなムードに水をささなかったようだった。朝になったら、別れがたくなっていた。出会う前に戻るなんて、とてもできそうにないと思ったことが、花川いわく、「わたしたち、目を見ただけですっかりわかってしまったの」。
 問題は、男が妻帯者である点だった。花川は「それでも構わない」と思ったそうで、つき合いが始まった。三カ月が経って、花川の妊娠が判明する。男と、男の妻と、花川とで今後を話し合うことになった。

 話し合いの場所として、全席個室の居酒屋を男が選んだのは、妻が激昂するかもしれないと危ぶんだせいだった。
 あらましを伝えたときには、おとなしく聞いていたらしい。波の音に耳をかたむけるようにして、ふうん、そうなのといったきりで、話し合いの日までの数日間を普段通りに過ごしたようだ。食事の仕度やワイシャツのアイロンがけなど、妻としての義務を淡々とこなしていたという。
 その反応の薄さを異様と感じ、だからこそ、いざとなったら、何をしでかすかわからないと男は考えたようだった。なぜなら、結婚十年目を数えるかれらには、子どもがいなかったからだ。その件に関しては、ほとんど諦めていたようだった。男も、かれの妻も、四十路間近とのことである。
 ところが、当日、男の妻は花川にふかぶかと頭を下げた。おめでとうございます。そう明瞭に発音し、実は、といって間をとった。自身も妊娠中であるとちょっと胸を張

り、お腹の子の父は、あなたではないと夫に向かって低い声でいい放った。ひと呼吸置いて、相性ってあるものね、と花川に笑みかけた口もとが、「何かとても美味しいものをたべたあとみたいに」もぐもぐと動いていたという。
「ね?」
 かたちとしては大団円じゃない? おさまるところにおさまったと。満足そうに牛乳をのんだ花川の横顔を卯月は思い出している。
 きょうの昼休みの出来事だった。
 前の会社で同僚だった花川に突然呼び出された。大通り公園のベンチに並んで腰掛け、サンドイッチをたべた。十月一週の木曜日。コートなしでいられるほど暖かな日だった。
 それでも花川はからだが冷えるのを心配して、フリースを腰に巻いていた。まだ目立たないお腹をしきりに撫で回す。足もとを鳩が横切りでもしたら、話の途中でも「ほら鳩さんでちゅよ」とお腹に向かって語りかけた。

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卯月は大げさにため息をついてみせたのだが、花川はまったく気づいていないようすだった。
 我が物顔とはあのことだとバスに揺られながら、卯月はまた息をついた。会社が退(ひ)けて、アパートに帰るところだ。
 花川は、終始おっとりとした口調で話しつづけ、何度も下唇をそうっと噛んだ。いや、噛み締めた。そのあと、かならず口角を上げ、いわゆるアヒル口をやるのだった。その口つきが、相手の男に好評なのだろうと卯月は容易に推察できた。営業部期待の若手として鳴らした花川の面影はどこにもなかった。
 よくできた小説というよりは、むしろ、どたばた喜劇の気味がある。それに相手の男の立場は、かなり微妙だ。妻がよその男の子どもを孕(はら)んだというのは、結果的に好都合だったとしても、かれにとってはショックだったにちがいない。そのあたりの心情を花川は少しでも汲んだのだろうか。

 わたしなら、と口のなかでいいかけて、卯月はバッグから携帯を出した。時刻を確かめる。六時三十五分だった。八時から逆算して、あと一時間二十五分、と思う。
 毎週木曜、夜の八時に、安西さんが卯月の部屋にやってくる。
 会社の上司の安西さんは大男である。オールブラックスに入っても引けを取らない体躯だが、ラグビーの経験はないそうだ。基本的には文科系だという。
 安西さんには妻があるが、卯月は、「そんなの構わない」と思っている。
 今も思った。そしたら、「それでも構わない」といっていた花川とは全然ちがうと気がついた。
「それでも」がくっつくと、自分がまるで二番手みたいだ。二番手ということは、一番手がいるということ。それでもいいからとお願いしている恰好になる。そうじゃなくて。

 

て、どんどん焼いて、安西さんが身動きできなくなるまで、たべさせるんだ。

 安西さんと深くなって、日はまだ浅い。
 卯月が派遣社員として製菓会社に勤めたのは今年の春だった。そこで安西さんと知り合った。
 派遣社員はほかに何人もいたのだが、安西さんは最初から卯月がからかいやすいようだった。卯月を若い女子代表に見立て、教科書クイズを出してきた。
「桜田門外の変で暗殺されたのは誰?」
「青いリトマス紙が赤くなったら何性?」
「ガットとは何の略?」
 井伊直弼。酸性。関税貿易一般協定。卯月が無表情で答えたら、安西さんは「ほう」と四角い顎に手をあてた。感心を表す身振りだったが、少しがっかりしたようすが見てとれた。安西さんは、どうやら、テレビに出ているおばかさんのタレントみたいに卯月を扱いたかったようである。

 わたしは安西さんと、ただ仲よくしたいだけなのだ。見損なってもらっちゃ困る。卯月はむぅと腕を組んだ。
 仏頂面のままバスを降りた。停留所の真向かいにある個人商店に寄る。ばあさんがひとりでやっている店だった。夕食の買い物はいつもここでするのだが、店にばあさんのいたためしがない。大声で呼ばわらないと、出てこない。今日もそうだった。すみませーん、と卯月は何度も声を張り上げた。あーい、ただいま、とようやく返事が聞こえてくる。
「なんにしましょ」
 え、そんなに、といいたいくらい腰の曲がったばあさんが店の奥から這い出るように現れる。卯月がこのばあさんの話をするのを安西さんはたいそう面白がる。きょうも生きていたよ。ばあさんの無事を報告する心づもりをしたら、生きてましたか、と愉快げに答える安西さんのようすが卯月の胸のうちに大きくひらいた。ニラと、ニンニクと、豚の挽肉、それと餃子の皮を買った。たくさんつくっ

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広げていける。これは、自分の数少ない長所だと卯月は思っている。だから、恋人には不自由しないはずだった。この長所を持ってすれば、理論上、どんな男とだってつき合うのが可能だ。だって、どこか、「いいな」と思える一点を発見すればよいだけなのだ。
 しかし、実際は、いつも片思いだった。卯月が「いいな」と思った男子には、なぜか、すでに彼女か、意中の女子がいた。中学生のころからそうだった。略奪する気は起こらなかった。そういう積極的な行動に出るのは、女子として選ばれし者の特権のような気がした。
 意中の女子がいる男子と交際した経験はあった。お節介な友人が無理矢理仲を取り持ったのは高校生のときである。セックスまでしたのだが、両思いの感覚は持てなかった。欲しがられた、とは思ったが、してもらった、とも思った。
 こうなったら片思い道を極めてやる。そう決めたのは、二年前だ。

 
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 生意気なおっさんだと卯月は思った。四十六の男をつかまえて生意気という自分のほうが生意気かもしれないが、若い女の愚かしさをあげつらい笑ってみたい中年男のほうが断然生意気なはずである。それに卯月は三十二歳だ。小柄で目が丸いため若く見られがちだが、三十女なのだ。
「ブログって何の略だか、知ってますか?」
 ある日、安西さんにクイズ返しをした。安西さんはたちまち「つまらん」という顔になった。口角をぐっと下げ、もにゃもにゃと呟いたのち、回転椅子を回し、卯月に背を向け、書類の作成を再開した。「関係各位」と親指シフトのワープロで打ち込み始める。
 つまり、それがきっかけといえば、きっかけだった。好きになってしまうかもしれないなあ、ということを卯月はぼんやりと思った。
 卯月は男のひとを好きになるのが比較的得意だった。
どこか、いいなと思った一点があれば、その「いいな」を

 

顔立ちもぱっとしない男が膝に手を置き、座っていた。本日はどうも、と恐縮しながら挨拶してくる。
(でも、一生懸命。何によらず)
 卯月は、ぱっとしない男の「いいな」と思える一点をすぐに探り当てた。しかし、広げることはできなかった。好きにはなれるかもしれないが、好きの質が根本的にちがうのだった。
 だったら、片思いのままでいい。それがわたしの道なのだと卯月は決めた。そう決めたほうが楽だったからだ。あらかじめ遂げられない恋なら、失くさなくて済む。花川みたいに、めりはりのきいた恋愛はわたしには不向きだ。
 花川とよっしゃあ君は、かれの心変わりにより、別れを迎えた。花川は、去っていこうとする恋人に、(卯月からしてみたら)突如として執着し出した。会社のビルの屋上から飛び降りてやるとか、手首を切ってやるとか、よっしゃあ君をさんざん脅して疲弊(ひへい)させたのち、職場を辞めた。

 家具メーカーで、卯月は営業事務をやっていた。チームを組んでいた男の「よっしゃあ」という掛け声を「いいな」と思った。天真爛漫な腕白坊主みたいだ。打倒花川を合い言葉にふたりで頑張ったものだった。あいつにだけは負けたくないというよっしゃあ君の口ぶりは、花川が女だからというのではなさそうだった。同じ営業として、かのじょを尊敬していて、だからこそ負けたくないとしているように卯月には見えた。「いいな」と思った一点を広げた結果だ。
 卯月に熱をあげてるヤツがいるのよ、あたしの顔を立てると思って呑みにつき合ってくれないかな、と花川に頼まれ、居酒屋に出かけていった。けっこういそいそとしていた。花川に一席設けてくれと頼んだのが、実は、よっしゃあ君のような気がしてならなかったからだ。ベタな小説によくあるケース。
 でもちがった。よっしゃあ君もくるにはきていたが、花川の彼氏としての登場だった。卯月の隣には、営業成績も

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 たっぷり精をつけさせるつもりですか。安西さんはそういって、脂でよごれた口のまわりをティッシュでぬぐった。満腹、満腹と仰向けになる。ニラとニンニク、あんなに入れて、と手のひらに息を吹きかけ、かいでみている。
「わたしもたべたから大丈夫だよ」
 卯月がいっても答えない。
 自宅に帰ってからのことを気にしているのかもしれない。奥さんに臭いと鼻をつままれるのが面倒なのかもしれないなあと思っていたら、安西さんが起き上がった。
 そのすがたをキッチンでコーヒーをいれながら、卯月は見ている。卯月の目には、立ち上がった安西さんが、会社にいるときよりも巨人に映った。ガリバーだ、と口のなかでいう。独り笑いが自然とこぼれる。
 安西さんは、棚のいちばん上にある灰皿を苦もなく手に取り、ほほう、と独りごちていた。
「前の男は煙草をのんでいた、と」

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 その後、タイだかカンボジアだかにひとり旅に出た。大股をひらいて象にまたがった写真を卯月が見せられたのは、花川が照明器具のメーカーに営業として就職したときだった。卯月が派遣社員になったのと同時期だったから、一年前のことである。安西さんと知り合ったばかりのころだ。

 卯月の部屋は四階建てのアパートの最上階だ。
 八畳ひと間にバス・キッチン付きだから、ベッドが大きく見える。部屋のベッドというより、ベッドの部屋という感じだ。通販で買った多目的棚および組み立て式クロゼットを壁面に置いている。高くない天井まで突っ張り棒で固定していた。
 いかにも年収二百五十万の独身女子の住まいふうで、安西さんはその雰囲気を、エッチである、と評している。
「さらに餃子までたべさせて」