ニリンソウ  |  davinci

るんだろう。
 もともと口数の少ない弟は、昨夜の食事でもほとんど自分から話さなかったが、それでも、電池が仕込まれているみたいにニコニコとあいづちを打ちつづけていた。ふたりの甥っこたちは、しおりさんに何度叱られてもへこたれず、リビングから2階の子供部屋まで走り回っていた。
 母が一緒に暮らすことがまだ理解できていないようで、「おばあちゃんたち、いつ帰るの?」としきりに尋ねていた。
 元気な子供たち。しおりさんがリビングにいけた黄色いガーベラ。幸せそうな光景。
 だから、ひどく、不安になる。
 母が同居するせいで、日当たりの良い子供部屋は取り上げられてしまった。荷物置きになっていた小部屋が、これからは子供たちの部屋になるのだという。しおりさんは余計に食事の手間が増えるだろうし、家族旅行も母に合わせて行き先が限られるのだろう。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

ニリンソウ

 

今すぐ走って逃げ出してしまいたかった。ヘンゼルとグレーテルが森にしるしを残したみたいに、母が小石をぽとりぽとりと落としているような気がして、来た道をそっと振り返って見る。そこには木の影が、やさしく落ちているだけだった。

 東京郊外の弟の家は、都心までは遠いものの、近くにこうした大きな自然公園があって暮らしやすそうではある。
 とはいえ、会社の補助で安く借りている一軒家は、お世辞にも広いとは言いがたい。
 しおりさんは感じのいい人だ。弟の結婚相手が自分と同じ歳と聞いたときは、なんとなく嫌なものだったけど、会ってみれば、共に宝塚ファンで意気投合。たまにメールでやりとりをしている仲だ。
 ひさしぶりに会うしおりさんは、どこがというわけではないのだけれど、少し老けたように見えた。同じ歳なのだ
から、わたしもまた、知らない間に中年の物腰になってい

ニリンソウ

 自分の母親が、いつか、この家の中で疎まれるのではないか。
 想像して苦しくなる。勝手なもんだ。わたしだって、友達には夫の親の愚痴ばかり言っているくせに。

 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

「佳乃、携帯電話持ってる?」
「持ってるけど」
「ニリンソウの写真、それで撮れる? 麻奈ちゃんに見せてあげたらいいわ、あの子もお花、好きやから」
 カシャッという小さな音とともに、わたしの携帯画面にニリンソウが納まった。保存ボタンを押す。
 今、こうして母と歩いている時間も、わたしの中に保存されるんだろうな。
 まるで母が死んでいなくなった未来から、この景色を見ているみたいに思えた。
 ピクニックをしていた親子連れが、シートをたたんで帰り支度をしている。いつの間にか、太陽が雲に隠れ、空は青から白に色を薄めていた。
  父 と母とわたしと弟。大好きだったあの4人だけの家族が、もう世界のどこにもないことが、どうしようもなく悲しくなった。
「お母さん、大丈夫?」

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

ニリンソウ

 

「夏になったら、福岡に遊びに行こかなぁ」
 ニリンソウを見ていた母が、口を開いた。
「そうよ、遊びにおいでよ、お母さん。麻奈もおばあちゃんに会いたがってるし」
 自分の声がひどく間抜けに聞こえる。
 母はきっと福岡には来ない。わたしが、お義父さんやお義母さんに気を使ってばかりいるのを、よく知っているから。
 母の肩に、小さなクモがついていたので、そっとはらってやる。
「なに?」
 母はクモがなにより怖い。
「花びら、桜の」
「あら、そのままでいいのに」
「なぁ、お母さん、」
 口にしたものの、ことばが浮かばなかった。
 母が「そうや」と嬉しそうにわたしの顔を見る。

ニリンソウ

 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 母はゆっくりと歩きだした。そして、くすくすと笑いはじめた。
「なによ、なんで笑うん」
「なぁ、佳乃、知ってた?」
「え、」
「お父さん、ずーっと昔、愛人さんいたんやで」
 まさか。一体、なにを言い出すのだ?
「あんたが10歳くらいのときやろか。お母さん、その愛人さんに会うたんよ。お父さんと3人で」
 母は、腕を後ろに組み、つま先をひょいっとあげながら子供みたいな仕草で歩いている。
「なんで気ぃついたんやろね、お母さんドンくさいのに。でも、なんか、あっと思て問いつめたら、お父さん白状して。なんや知らんけど3人で話しあおういうことなって、あんたと玲司、おばあちゃんにあずけて大阪駅の近くの喫茶店で会うたんよ。きれいな人やったんは覚えてるんやけど、なんでやろ、顔は思い出せへんの。おかしいやろ」

「それで? お母さんどうしたん」
「別に。なんも言わんと座ってた。お父さんも愛人さんも黙ってるし、しーんとインキくさい感じ。しゃあないからお母さん言うたんよ。お父さんのことあげますって。ついでに子供ふたりもノシつけてあげますって」
 なんてことを。
「そしたら、その人、そんならいりませんやって。そんで、なんや解決したんよ」
「お父さんは、なんて?」
「別に、なんにも。謝ったんやったかなぁ。昔のことやからもう忘れたわ」
 人ごとみたいにしれっとしている。
 父と母とわたしと弟。小さな春の庭みたいに調和がとれていた(と信じていた)あの家族に、実は父の愛人の根っこがからまっている時代があったなんて。ニリンソウが東京に咲いていることよりも、それは驚くべきことだった。少なくとも、わたしにとっては。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

のまわりをゆらゆらと取り巻いている。暮れていく東京のまちを、飛行機の窓から見下ろしながら後悔する。
 子供を育てることに、自分のほぼ全部を使っているわたしの毎日。宝塚の舞台なんて、もう何年も観ていない。ガマンなんか、たくさんたくさんしている。なのに、知らない誰かから責められているような気がして仕方がなかった。
 目の前の小さなテーブルの上で、機内サービスのコーヒーが湯気をあげている。
 そろそろ麻奈のお風呂の時間だ。お義母さん、きっと手こずっているだろう。こだわりが強い子だから、からだを洗う順番が違うと怒り出すし。バスルームで孫娘と格闘している姑を想像し、窓にうつった自分の顔が、ほんの少し微笑んでいることに気づく。
 いつのまにか、飛行機は夜の中だった。
 なんだったっけ? 昨日、公園で見た白い花。
 そう、ニリンソウ。

「ちょっと待って……」
 急に力が抜けて、ベンチに腰掛けた。
 なに、そんなびっくりしたの、などと母が隣に座った。
「お母さん、それ、ほんまの話?」
「ほんまの話」
 母が視線を向けた空の先では、父がペコリと頭を下げているようだった。

 福岡行きの飛行機は、予定通り離陸した。
 いらないというのに、玲司の車で空港まで見送りに来た母。送ったり送られたり。どちらの引っ越しなのかわからない。
 泣くかと思った空港での母との別れも、バタバタとお土産を買ったりしていたら、あっさりしたものになってしまった。
 もっと、なにか、大切なことを言いたかったのに。言葉にしそこなった気持ち。波紋になって、いつだってわたし

ニリンソウ

 

 春になるとぽっこり咲いて、そして5月の最初くらいには、なんにもなかったみたいに葉っぱも残らぬ花。そのはかなさがいいのだと、母は言っていた。
 あと何回、わたしは母に会えるんだろう。
 地球の裏側くらい離れているのなら、会えない言い訳もできるのに。母を東京に残してきたことが、急に現実として目の前に広がりはじめる。
 東京で、お母さんに新しい友達なんてできるのかな。
 鼻の奥がツンとした。座席ポケットのヘッドフォンを、あわてて耳に押し当てた。英語の曲が流れていた。音量をあげてまぶたを閉じる。
「別に見えなくなったからって、ほんまに消えてなくなったんとちゃうの。地面の下でちゃあんと生きているんよ。ニリンソウは」
 母が、公園で、ぽつりと言っていた。
 きっと、なんとかなる。

 

ニリンソウ

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 そう気楽に考えるには、わたしは、わたしは、母が老いていることを知っていた。
 とにかく今は帰りたい。福岡のわたしの家が、恋しくて仕方がなかった。

           ー END ー

ニリンソウ
  • 著者:益田ミリ
  • イラスト:益田ミリ
作 成 日:2008 年 09月 30日
発   行:益田ミリ
BSBN 1-01-00018284
ブックフォーマット:#429

1969年、大阪生まれ。イラストレーター。
ふとした日常のつぶやきを切り取った「つぶやき川柳」やエッセイ、マンガの著書多数。「ダ・ヴィンチ」本誌では「わたし恋をしている。」連載中。
近刊に『上京十年』(幻冬舎文庫)、『大阪人の胸のうち』(光文社知恵の森文庫)。

Miri Masuda

益田ミリ

 

 
 
 
益田ミリ

佳乃は、老いた母と東京の公園を歩く。
住み慣れた大阪を離れ、東京の弟の家に引っ越してきた母。
結婚して今は福岡に住む佳乃は、かつての家族と、いまの家族を、それぞれ思い浮かべる。

 
 
 
Miri Masuda