渡 良 瀬 橋  |  davinci

 

渡 良 瀬 橋

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 つい、先週のことだ。
 女子高時代の友達の結婚式があり、その後、わたしはホテルのラウンジで数人とお茶を飲んでいた。同じ吹奏楽部だった仲良しのグループだ。
 わたしはドキドキしていた。
「ところで、ハギーはどうなの?」
 二児の母である真由が切り出してきた。きたきたきたきたと思う。
「そうだよ、ハギーってそういう話、昔っから全然しないもんねぇ」
「そうそうそう」
 5人のうち、既婚者が3人。看護師をしている奈々絵はまだ結婚していなかったが、この春に結婚がひかえている。実質、相手がいないのはわたしだけだ。奈々絵のプロポーズ話がちょうど終わったので、鉾先がわたしに向かってきたのだ。
「ハギーは、今、好きな人とかいないの?」

 付き合ってる人ではなく「好きな人」と聞くところが、小さな気づかいである。
 さすがに、いままで男と付き合った経験がない、と友達に告白したことはない。ただ、彼女たちの誰ひとりとして、過去に一度もわたしの恋人を見たことがないのだから、
 ひょっとして36歳で処女か? 
 と思われている可能性はあるものの、何もそこまで打ち明けなくともよいだろうと、いつも適当にごまかしていた。
 だから、あの日、自分の口から、嘘がよどみなく出て来たのは意外だった。
「実は今、付き合っている人がいるんだ」
「えっ、そうなの?!」
 って、そんなに驚くか。
「なにしてる人?」
「仕事関係の人なんだけど」

んだけど。そうそうそう、そうなの、そういうことになってて。でもね、彼、ついこの前、転職してさぁ、仕事が落ち着くまで、もう少し後でもいいかって。でも、近々、彼の実家には挨拶行くことになってんだけどね」
 
 わたしは、ティースプーンでゆっくりミルクティを混ぜながら、ひょうひょうとしていた。結婚式のためにネイルサロンで仕上げた指先が、本来の乾いた爪を被い隠していた。
 ついてしまえば、嘘など簡単なんだなと思った。
 時間にすればたった一分ほどの嘘が、わたしの人生に色どりを与えたことが面白かった。太陽の光りが、ぶあつい空気をつきやぶって地球に届いているように、嘘が、わたしの人生に鮮やかな光線を送ってくれたのだ。
 かまうもんか。
 誰も傷つけてはいない。
 3ヶ月後の奈々絵の結婚式のときに、再び、みんなに恋

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

渡 良 瀬 橋

 

「同じ会社?」
「うーん、まぁ、仕事関係っていうか」 
「なによ、ハギー、なんにも言わないんだもん、いつからなのよ」
「もうすぐ2年になるかな」
 みんなが大袈裟に驚くから、ラウンジにいた他の客が一斉にわたしたちのテーブルを振り返った。
 わたしは、そのとき、なぜか佐野くんのことを考えていた。別に彼を好きだったわけではないのだけれど、ふと浮かんだのが、会社を辞めたばかりの佐野くんだったのだ。
 モデルがいれば嘘にも現実味が出てくる。わたしは、饒舌になっていった。

「ぜんぜんカッコよくないよ、普通の人。あんまり口数も多くないし。でも、学生時代はずっとテニスやってて、スポーツとかは好きみたい。出身? 栃木。足利って知ってる? あ、知ってる? 実は、そろそろ結婚の話も出てる

 

の経過を聞かれたら、
「実は、いろいろあって別れたんだ」
 って言えば、すべて無しになるだけのこと。自分の首をしめるほどの嘘をつきつづけるつもりもない。わたしにだって、過去に切ない恋があったのだと友達に思ってもらうくらい、いいじゃないか。
「ね、彼の写真とかないの?」
 みんなが、居もしないわたしの彼のことで盛り上がっていた。
「ないない」
「ほんとぉ?」
「ね、ハギー、彼のことなんて呼んでるの?」
「いいよ、恥ずかしいよ」
「いいじゃん、それくらい」
「普通だよ、佐野くん、って呼んでる」
 わたしの名字を間違えつづけた佐野くん。そのお詫びとして、わたしの架空の過去に少し役立って。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

渡 良 瀬 橋

 総務部に挨拶に来た佐野くんのお母さんもまた、佐野くんに似たひかえめな感じの人だった。
「本当にご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
 下げた頭をずいぶん長くあげなかったので、総務部長はおろおろしていた。お母さんまでここで倒れてしまうのではないかと、お茶を運んだわたしまで心配になったほどだ。
「しばらく休養をとらせようと思いまして。あの、いづれ、本人にご挨拶にうかがわせますので」
 そう言ってまた、お母さんは深々と頭を下げた。
 佐野くんが辞めてくれて、本当のところ、わたしはホっとしていた。つらそうだったから。
 人にはどうやっても向いていない仕事がある。つらぬけばいいってもんでもない。無理することなんかなかったんだ、佐野くん。もう、会社に挨拶なんか来なくてもいいんだよ。

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 PM16:27

 まだ空は焼けてはない。赤くなる前、空は白く発光していた。太陽のまわりも、白く、白く、まぶしいほどに白い。
 渡良瀬川の川面が金色に輝いている。両岸に高い建物がないために、視界が横に広い。夕焼けは、あと、ほんの、少し先だ。
 佐野くんは、今頃どうしているのだろう。退職後のことまでは、わからない。
 彼は、いつもひかえめだった。朝、タイムカードを押すときも、後から来た人に「あ、どうぞ」などと順番をゆずったりして、自分が遅刻していたこともあったっけ。
 営業の仕事などつづかないだろう。
 社内の誰もがそう思っていたに違いない。そして案の定、佐野くんは溢れてしまった。限界のしずくがどばーっと溢れて、倒れてしまったのだ。

 やがて、どんどん空が赤く染まっていく。渡良瀬川にも反射している。地平線近くは、朱赤のインクを太いフデでさーっと引いたようにいっそう濃い。
 なんてきれい!
 夕焼けなど、あたり前みたいに思っていたけれど、まじまじと見てみれば怖くなるほど美しい。
 自分の嘘 をリアルにするために、わたしは、わざわざこの橋の上にやって来た。今、その嘘が、夕日を浴びながら完成していた。

「実は、最近、別れたんだ……。そうそう、前に話してた彼と。ううん、彼の実家に挨拶には行ったの。足利、ほら、あの、森高千里の歌にもなってる渡良瀬橋があるとこ。夕日? 見た見た! 橋の真ん中から。もう、ホントにきれいで、感激したよ。彼のお母さん、すごく感じのいい人でね、夕方、わたしと彼を見送るために、渡良瀬橋まで送ってくれて。夕焼けがあんまりきれいだから、彼と彼

 

渡 良 瀬 橋

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

のお母さんと3人で、しばらく並んで見てたんだ。ホントにきれいなんだよ、渡良橋からの夕日。え? 別れた理由? うーん、まあ、いろいろあって……」
 
 なんにもおかしくない。
 わたしは、おかしくなんかないと思う。今、とても、清々しい気持ちだから。佐野くんも、同じ夕焼けを、どこかで見ていたらいいと思った。
 太陽が沈んだ後も、まだ、なごり惜しそうに細く赤い空が残っている。夕日に音などないはずなのに、沈んでしまえば急にあたりが静かになったような気がした。わたしは渡良瀬橋を大股で引き返し、駅へと向かった。

          ー END ー

Miri Masuda

 

1969年、大阪生まれ。イラストレーター。
ふとした日常のつぶやきを切り取った「つぶやき川柳」やエッセイ、マンガの著書多数。「ダ・ヴィンチ」本誌では「わたし恋をしている。」連載中。
近刊に『上京十年』(幻冬舎文庫)、『大阪人の胸のうち』(光文社知恵の森文庫)。

渡 良 瀬 橋
  • 著者:益田ミリ
  • イラスト:益田ミリ
作 成 日:2008 年 09月 30日
発   行:益田ミリ
BSBN 1-01-00018264
ブックフォーマット:#429

益田ミリ

 
 

いちども男性と付き合ったことがない、36歳のハギワラ。
会社の後輩・佐野くんの故郷、足利の渡良瀬橋で夕日を待つ。
べつに彼を好きなわけでもないのに……。

 
 
 
益田ミリ

 
 
 
Miei Masuda