渡 良 瀬 橋  |  davinci

読み切り連載シリーズ 2

益田ミリ

 
 
 
 

Miri Masuda

渡 良 瀬 橋

 
 
 
 
Miri Masuda

     WEBでしか読めない、
    益田ミリの連載シリーズ!
 
第1回 『バリケン』
第2回 『渡良瀬橋』

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

第1回を読む

 
渡 良 瀬 橋

 
 
 
益田ミリ

 
 
 
 
 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

渡 良 瀬 橋

 
 
 
 
 
 
いちども男性と付き合ったことがない、36歳のハギワラ。
会社の後輩・佐野くんの故郷、足利の渡良瀬橋で夕日を待つ。
べつに彼を好きなわけでもないのに……。

渡 良 瀬 橋

PM15:16

 真冬の太陽が足利の街を照らしている。反対側の東の青空には、白い和紙を張りつけたような、まるい月が浮かんでいた。
 日暮れには、まだ時間がある。
 少し前から広がってきた雲が、夕焼けの邪魔をしなければよいのだけれど……。
 わたしはひとり、橋の上に立って、そんな心配をしている。
 
 結局、佐野くんは、わたしの名字を覚えてくれなかった。2年近く同じ会社にいたというのに。
「あの、すみません、これ部長に渡しておいていただけますか」
 佐野くんがわたしに言ったセリフは、毎度これだけだったけれど、わたしがその声に気がつかずに振り向かない

と、彼は不安げな声で、わたしの名を呼んだ。
「オギワラさん」
 と。
「あ、はい、すみません」
 わたしが資料を受け取ると、佐野くんは、ああ、オギワラさんで良かったんだというホッとした顔で、営業部にもどって行った。
 ハギワラなんですよ。ハ・ギ・ワ・ラ。
 微妙に違っていたが、佐野くんは、去年の暮れに退職してしまったので、わたしは彼の中でオギワラのままだ。どのみち、わたしの存在そのものを忘れてしまうんだろう。
 佐野くんのことはよく知っている。
 来月、2月3日の誕生日で24才になる。出身は栃木県の足利だ。趣味はテニスと読書。家族構成は母、妹。お父さんは病気で亡くなっている。佐野くんが教えてくれたわけではない。わたしの働いている部署が総務部だから、簡単に調べられただけのことだ。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 
 

渡 良 瀬 橋

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 彼とわたしは、干支が同じだ。それを知ったとき、妙に感心してしまった。12才も年下の人間が、もう社会人として働くようになっているのかと。
 意識などしなくても、わたしは一日ずつ、きちんと歳をとっていて、パソコンを打つ自分の指先を見れば、なんとなくおばさんらしくなってきているのがわかる。コンシーラで消せないものが増えている。肌がくすむという意味が、ようやく理解できるようになった。若い頃は、化粧品のコマーシャルを見るたびに、
(ずいぶんオーバーな表現を使うものだな)
 と思ったが、肌は、本当に、くすむものだった。

 PM15:37

 雲が、はけてきた。このままいけば、りっぱな夕焼けが見られるだろう。
 今、わたしが立っている橋の名前は、渡良瀬橋という。歌謡曲のタイトルにもなった橋で、ここから見る夕日がとても美しいのだそうだ。
 そして、あの日、佐野くんも、同じように「本当にきれいなんですよ」と言っていた。
 昼時の込み合った社員食堂で、佐野くんは同じ営業部の先輩たちと定食を食べていた。わたしは、たまたま彼のすぐ後ろの席に座っていたのだが、
「ワタラセバシの夕日って、本当にきれいなんですよ」
 前後の会話までは聞こえなかったけれど、いつもひかえめな佐野くんがちょっと大きな声で言ったので、「へぇ」と思った。後で、総務部に保管してある社員のデータファイルを見ると、渡良瀬橋は佐野くんのふるさとの街に架

 

渡 良 瀬 橋

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

かっている橋だったのである。
 出身が東京下町であるわたしには、帰るふるさとがない。生まれ育った街以外で暮らしたこともなく、通っていた幼稚園と小学校までは徒歩5分、中学校が徒歩15分で、高校までは徒歩20分。大学生になって、ようやく電車で1時間離れた駅まで通学したが、就職した今の印刷会社は、またもや徒歩で行ける距離。人生万歩計なるものがあったなら、わたしの歩数は平均をはるかに下回るに違いない。
 数年前、親は、ひとり娘のわたしのために、二世帯住宅に建て替えた。婿を迎える準備は万全である。なのに、いつまでたっても結婚のきざしはなく、2階のフロアをわたしひとりで使っている。ただし、食事は母まかせなので、キッチンはまっさらのまんまだ。
 ひとり暮らしだった佐野くんは、ちゃんと自分で料理を作っていたのだろうか。総務部のデータには、もちろん、そこまでのってはいなかった。

 PM15:51

 寒風が、足下をきーんと冷やしている。橋の上は風も強い。日の短い冬の夕焼けなど4時前には見られると思っていたのに、太陽はまだ黄色く、空は青かった。
 こんなことなら、さっきの喫茶店でもう少しゆっくりしていればよかった。
 喫茶店は、裏通りの路地をくねくねと曲がったところにひっそりと建っていた。古くからそこにあるようだった。わたしは、そういうタイプの喫茶店を探していたから、見つけたとき、思わず「あった!」と声に出してしまった。
 それは、若者が行くようなカフェなどではなく、頑固として「喫茶店」だった。こげ茶色の木の壁にはツタがからみついており、小さな入り口のドアを引くと、カララン、カラランとベルが鳴った。わたしの中の、佐野くんのイメージにぴったりだった。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

渡 良 瀬 橋

 

 PM15:42

 トラックが通るたび、橋が少し揺れる。
 わたしが胸に描いていた渡良瀬橋は、それほど大きいものではなかった。太鼓橋みたいに丸く、かわいらしい感じ。しかし、実際にこうして訪れてみれば、橋は、太く長くまっすぐだ。交通量も多い。脇に歩行者用の通路がもうけてあり、地元の人々は、広々と自転車で渡っている。
 渡良瀬川は悠然と橋の下をくぐって流れてゆく。川辺の枯れた水草に、スーパーのビニール袋がひっかかってはためいている。その近くに、毛糸のマフラーが「し」の字の形になって落ちているのが見える。
 きっと、佐野くんも、いくどとなくこの橋を渡ったのだろう。ときには誰かと。ときにはひとりで。そして、もうすぐ、わたしと二人で渡ったことになる。

 可能性もないのに告白なんかできないし、好みじゃない人とは付き合いたくない。
 そう思って生きてきたわたしを、わたしは変えられない。変えたいのでもなく、変えようと思えない。だから、何も変わらないし、わたしにはいつまでたっても恋人がいない。おまけに、ここ何年かは、好きな人すら現れない。
 コーヒーは、香りもよく美味しかった。黒い液体が、わたしのからだに染み入った。
 SEXとは、どういう感覚なのだろう? あんな窮屈そうな場所に。異物を。どんな感覚なのだ? 疑問だ。そして、このまま「永遠の疑問」になる可能性をわたしは抱えている。
 店の主人は、カウンターで常連客と話し込んでいた。ショーケースに、ケーキが3種類ほど並んでいた。オリジナルのようだった。なぜなら、いちごのショートケーキにささっている飾りの葉っぱが、店中にいけてある椿の葉と同じだったから。いちごの赤より、葉の深緑のほうが目

 

渡 良 瀬 橋

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 いらっしゃいませと言ったのは初老の男で、店の奥は意外に広く、これでもかと言わんばかりに花がいけてあった。窓側の席に座り、わたしは深煎りコーヒーをたのんだ。
 佐野くんと、わたしとの間に何があったわけではない。
 そもそも、わたしに何もないのは今に始まったことではなく、わたしは、生まれてから一度も男の人と付き合った経験がない。その事実は、どんなときも、わたしにうっすらとまとわりついている。友達と芝居を観た帰り道とか、バラエティ番組で大笑いした後とか。心がやわらかになっているときに、
(でも、お前は男と付き合ったことがないんだよ)
 わたしの背中から、事実が意地悪くそうつぶやくのだ。
 もしかしたら、一生、わたしには恋人ができないのかもしれない。そう思うたびに、自分がまるっきり出来上がっていないような気持ちになる。でも、だからといって、どうしていいのかわからない。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

立っていた。
 わたしは、それを、佐野くんとふたりで笑いあったことにしよう、と思ったのだった。

 PM16:00

 水鳥たちが、横一列になって飛んでゆく。携帯の時計を見る指先がかじかんできた。申しわけ程度に息をふきかけて温める。
 わたしは、日曜日に、ひとり、こんな橋の上で一体、何をやっているんだ?
 冷静にならないよう言い聞かせていたけれど、ふと、我に返ってしまう。寒い。寒さでからだがちぢこまり、筋肉痛になりそうだ。もう、帰ろうか。
 ここに来たのは過去を作るためだった。何もないわたしの過去に、佐野くんとの思い出を強引にはめ込みに来たのだ。それは、誰にも説明がつかない。説明がついても、かわいそうな女と思われるだけなのをわかっているから黙っている。

渡 良 瀬 橋