木の斧  |  davinci

 

川面は 木々の緑が映って深い緑色をしていた。小さな橋の上から、祖父とふたりでいつも葉っぱの舟を流して帰った。お母さんがいる東京まで、カッパが届けてくれるっておじいちゃんが言ったから。祖父母が暮らしていた遠野の川には、カッパが住むという伝説があったのだ。
 遠野の夕暮れ。山の頂きに雲の影が落ちて、大きなプリンみたいに見えた。村は一日中、やさしい水の音に包みこまれていた。子供時代に出会わなければならない美しいもの全部が、あそこにはあったのではないか。振り返ってみれば、そんなふうに思う。母が退院して、あたしが東京に戻ると、交代みたいに祖父が入院し、そして病院を出ることなく死んでしまった。
 お見合いパーティで出会った遠野さん。だからその名字は、あたしをセンチメンタルにする。 名字なんて、ずっとどうでもよかった。あたしに与えられたのは、梨花という名だけ。その上にくるものに意味なんて持たせずに生き

「いえ、平気です」
 かわいらしく見えるよう首をかしげて微笑んでいる自分が、ひどくすすけて思えた。

 あたしが、まだ小学校に上がる前。母がからだを悪くして入院していた時期があった。父は仕事で手一杯で、幼いあたしは母の実家に預けられた。祖父母は、岩手県の山あいの村で、小さな和菓子屋をひらいており、東京にいる母が退院するまでの1年を、あたしはそこで過ごしたのだ。
 村には美しい川が流れていた。
「川、カラカラカラって聴こえる」
 わたしが言うと、祖父は笑ってわたしの頭をくしゃくしゃにした。和菓子職人だったおじいちゃんの手。ほんのり甘い匂いがした。その手に引かれ、よく川を見に行った。思えば、お父さんとお母さんに会いたいとグズるあたしを、祖父は根気よくあやしてくれたものだった。

木の斧

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

木の斧

 

ていきたいと思っていたから。
 でも、彼の名字は特別だった。懐かしい「遠野」を、自分の名の隣にそっと置いてみたい。
 ふわふわと想像して、タイプでもなんでもない遠野さんとカップル成立したお見合いパーティだったのである。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

木の斧

 遠野さんが庭園だと言うものだから、広い芝生に松の木でも生えているのだろうと想像していた。
 しかし、門を入って長い石畳の小道が終わると、突然、目の前に、うっそうとした森が現れた。生い茂る木々で、真上の青空が隠れるほどの。
 庭園の敷地全体がすり鉢状になっていて、中心にどっかりと大きな池があるのが見えた。
「あれ泉なんです。水が湧いてるんですよ。降りてみましょう」
 他に誰もいなかった。土の道を歩くのなんて、ずいぶん久しぶりな気がした。
 泉は、ただ静かにそこにあるだけだった。水の中は暗く、何も見えなかった。
「変わってるでしょう? この庭園。泉園とも言うんですよ」
「ほんと、変わってる。池は見たことあるけど、泉なんて

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

初めてかもしれません」
「店のお客さんがこの近くに住んでて、それで教えてくれたんですよ」
 遠野さんが笑うと、焼けた肌のせいで歯だけ目立って白く見える。
 小さなベンチがあったので、泉に向かって並んで腰掛けた。
「あたし、お腹ペコペコです、食べましょうか」
 デパ地下で買ってきた惣菜を、ハンカチの上に並べた。 泉のそばは、ひんやりと涼しい。
 イソップ童話だっただろうか。泉に斧を落としてしまった若者の物語を読んだことがある。泉の中から女神が現れて、お前が落としたのは金の斧か? 銀の斧か?と尋ねるのだ。若者が正直に「落としたのは木の斧です」と答えると、女神からご褒美がもらえた。確か、そんな話だった。

 なに? これは一体なんだろう? 
 でも知っている。それは過去に味わったことのある感情。まるで、まるで、愛おしさに、似た。
 あたふたして、話題を変えた。
「ここ、山の匂いがしますね」
「あ、わかりますか? そうなんですよ!」 
 遠野さんが弾んだ声になった。
「俺も、最初に来たときそう思ったんです。小さい庭園なんだけど、そのわりにしっかり山の匂いがするんですよ。崖になってるとこと、斜面のとこ、泉のまわり。植物がちゃんと住み分けしていて、ここは山の雰囲気に似てるんです」
 岩手の、あの遠野の匂いと似ている。さっきからそう思っていた。
 木漏れ日の中で見る遠野さんは、いつもよりぐっと力強い横顔になっている。

 隣で、サンドイッチの容器についているセロハンテープを外そうと苦戦している遠野さん。
 遠野さんを、目の前の泉に落っことしてしまったら、あたしは女神になんと答えるだろう?
「その男は木の斧だから、あたしのじゃありません」
 これから先、もっといい男と出会えるかもしれない。今日の夜もまた、お見合いパーティが控えている。
 そんなことを考えていたら、 遠野さんが「どうぞ」とサンドイッチを差し出した。そして、泉のほうに顔を向け、にこやかに言った。
「あのパーティで、どうして梨花さんが俺を選んでくれたのか、今でも不思議なんです」
 自分のこと、「僕」じゃなく「俺」って言った。あたしの前で、はじめて。たぶん、遠野さん自身も気づいていない。 
 突然、あたしの心にあるものが込み上げてきた。

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

木の斧

 
ブンゲイ ダ・ヴィンチ

木の斧

笑ってくれるだろうか。
 あたしは、もう少し、遠野さんとふたりでここで座っていたいと思った。
「あの、あたし、ちょっとお手洗いに行ってきます」
 サンドイッチを頬張っている遠野さんに告げ、来た道をひとり登っていく。とりあえず、今夜のお見合いパーティをキャンセルする電話をかけるために。

          ー END ー

 

 あたしは、ずいぶんこの人を窮屈にさせていたんだなと思った。小奇麗な店での食事ばかり。人込みの新宿で流行りの映画。僕、なんて言わせて。こんなふうに革靴を履かせてしまって。 きっと普段はスニーカーとかトレッキングシューズなんでしょう?
 あたしが退屈すると気をつかっているのか、趣味の登山の話も、質問しない限り遠野さんはほとんど口にしなかった。
 塀ひとつ越えると車通りだというのに、この泉園の中は静かに守られていた。空に向かって広がる木の葉も、しっとりとした土の小道も。そして、こんこんと湧く、この泉も。満ちている山の匂いに、遠野さんはうっかり「俺」って言っている。 
 この人なら、わかってくれるだろうか。
 迫ってくるような遠野の山の美しさや、響く川音。 遠野という名字に惹かれたんだって告げたら、遠野さんは

木の斧
  • 著者:益田ミリ
作 成 日:2008 年 11月 26日
発   行:益田ミリ
BSBN 1-01-00017983
ブックフォーマット:#429
 

Masuda Miri

1969年、大阪生まれ。イラストレーター。
ふとした日常のつぶやきを切り取った「つぶやき川柳」やエッセイ、マンガの著書多数。「ダ・ヴィンチ」本誌では「わたし恋をしている。」連載中。
近刊に『上京十年』(幻冬舎文庫)、『大阪人の胸のうち』(光文社知恵の森文庫)。

益田ミリ

 
 

 


益田ミリ

 


Masuda Miri

落としたのは金の斧? 銀の斧?
お見合いパーティで知り合った梨花と遠野は、
ふたりで映画を観にいくことにしたが・・・・・・