マリン・ロマンティスト  |  davinci

読み切りアンソロジー

 
 
吉野万理子

 
 
 

 
 
Yoshino Mariko

 
マリン・ロマンティスト

読み切りアンソロジー「はじめての失恋」
シリーズです。新しい小説が今後も登場してきますのでお楽しみに!


年に一度の社員旅行、
二回りも年下の彼女を見つめる陽一だが・・・

 
 
 
 

 
 
 
 
吉野万理子

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 



Yoshino Mariko

読み切りアンソロジー

ブンゲイ ダ・ヴィンチ
 

 







      4:20PM

マリン・ロマンティスト

ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 二十四には見えない落ち着きがある。しっとりとした色香に、二十代、三十代の男性社員の数名が釘付けになっていることを、陽一も知っている。そんななか、干支が二回り近くも上の自分が奪い取れるのだろうか。無礼講の今日が一年でたった一度の、距離を縮められるチャンスかもしれない、と内心期待はしているのだが――。
  陽一は室内に戻った。ガラス窓を隔てた先は、皮膚がぎゅんと収縮するほど冷房が効いていた。
「社長、もう組み立てちゃっていいスか」
  坊主頭の内藤と上半身裸の富原が、階下からバーベキューセットを運んできた。まだ二十代の彼らには、晩夏の強烈な直射日光を浴びながら作業することが、何でもないらしい。
  苦笑して陽一は答えた。
「日が暮れてからな。それまで冷凍庫にあるアイスでも食っとけ」

 波が薄い膜をはるように砂の上へすうっとのびていき、また引いていく。鵠沼海岸の水際を、女子社員が三人、笑いながら歩いている。
向こうが気づいていないのをいいことに、陽一はそのなかのひとりだけを注視した。けれど、頭のなかからは、昼間の会議のことが抜け切っていない。タイムリミットが迫っていた。突破口はどこかにあるはずなのだが。
「おーい」
 すべてを振り払うように、陽一はペンションのテラスから大きく手を振ってみた。今そんなことを考えても仕方がない。年に一度の社員旅行、社長の自分が重苦しい顔をしていたら、士気にかかわる。
 見つめていた相手が、初めに気づいてくれた。長い黒髪をストーン付きのスティックでゆるく束ねた若葉が、控えめに手を上げて微笑む。そんな彼女を守るように、背後の江ノ島は威厳を保ってそびえている。

 

マリン・ロマンティスト

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

 素直にラムネアイスを頬張る内藤に、彼は聞いた。
「もう全員集まったか」
「まだ、秋美さんだけ来てないみたいです。つーか、来ないんじゃないですか。社長のあのセリフ、相当効いてたみたいっスよ」
 ぐふふと笑いながら、富原が加わってくる。
「あれはまじ、やばかったですよー。秋美さん、四捨五入したらもう四十なんですから。『発想が堅い。おまえの頭は栄養が足りてない。枝から見捨てられた落ち葉か、枯葉か』って。ちょうどお茶持ってきてくれた若葉ちゃんと比較してたの、一目瞭然ですよ」
「場を和ませるために言ったの。そのくらい秋美もわかってるって。社歴長いんだから」
 また会議のことを思い出してしまった。午後二時に会社を出る直前まで、ビールの広告のプレゼン準備をやっていたのだ。相手は大手企業ではないので、自分たち弱小代

理店も充分チャンスはある。期限は再来週の月曜日だ。
「そうかな~。案外、ある日突然『社長、もう耐えられません』。ありえますよ。辞表、バーン!」
「あのくらいで傷ついてたら、もう辞表百枚は渡されてるな」
「余裕だなぁ。そういう大人の余裕が、若葉ちゃんを惹きつけるんですかねぇ。今晩は、落とすんでしょ? 社長の赤銅色の腕が、若葉ちゃんの白い肌にぃ~」
 富原のぐふふふ笑いが内藤にまで伝染している。敢えて、あきれはてたという顔をつくって、陽一は答えた。
「あのな、新入社員に手を出す社長がどこにいるんだよ」
「だって据え膳食わぬは男の恥、ってねえ。若葉ちゃん、いつも社長に懐いてますよね。ほら、前の飲み会のときだって隣に来て。俺の勘だとかなり本気と見ましたよ。社長も五十なのに、まだまだ隅におけませんねぇ~」
「まだ四十六だ」

 と重々しく答えてから、付け足す。
「据え膳を食わないのも、社長の仕事のうちだ」
「どぇーい、もったいない」
 オバカキャラの若手タレントみたいな奇声を発して、二人は食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げ捨て、階段を駆け下りていった。
 そうか、あいつらも俺と若葉の間に、何か起きるかもしれないと感じているんだな。陽一は自信を取り戻した。
急にやる気が出てきた。キッチンに入って、冷蔵庫を覗き込んだ。そろそろ野菜を切っておくか。流しでニンジンやピーマンを洗い始めたときだった。 
「社長」
 首筋に息が掛かった気がして、陽一は動揺を隠した。彼女は物腰だけでなく、声もしっとりとして、やわらかい。
「ああ、若葉か。もう浜辺から帰ってきたのか」
「他の子は江ノ島まで行ってみるって。わたしは暑いから

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

帰ってきちゃいました」
「アイスあるぞ」
「それより、お手伝いさせてもらえませんか」
「いいからいいから。毎年この旅行だけは、俺が社員たちをねぎらう、って意味で、全部準備することになってんだ」
「でも、量が多いから。どうせわたし、ヒマですし」
 ここまで言われたら、断る理由はない。
「野菜、ちゃんと切れんのか」
「あんまり料理は得意じゃないんですけど」
 たしかにベテラン主婦のような鮮やかな手さばきではないが、しかし決して危なっかしくもない。タン、タン、タンとピーマンを丁寧に切っていく。陽一のほうは、ピーラーでニンジンの皮を剥いた。
「社長は、再婚のご予定はないんですか」
「いやまあ、そういうのはねぇ」

  まだ太陽は沈む気配を見せない。時間的に少し早いのではないかと思い、彼は用心深く答えた。海がもたらす魔法は日が暮れてから、という気がする。
  しかしこういうとき、女性のほうが大胆なのかもしれない。
「社長の目にかなう人なんて、そうそういないですよね。とっても大人の雰囲気ですもん、社長って」
  若葉はまぶしい笑顔を見せた。階下で若手社員がわいわい騒いでいる。階段を上がってくる気配はない。今が、二人きりでいられる唯一の機会なのだとしたら、一歩踏み出すべきなのかもしれない。
「よく言うよ。君自身は、こんなオヤジには興味ないだろう? 君の彼はきっともっと若くて――」
「そんなことありません」
 はっきりと否定されて、陽一は息を詰めて次の言葉を待った。彼女はゆっくり口を開いた。

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

「社長と五歳くらいしか違わないかも」
 え、と思ったせいで、ピーラーがぐっと深く入り、ニンジンを必要以上にそぎ落としてしまった。
「何が」
 若葉がふしぎそうな顔をして、陽一を見上げた。
「わたしの彼の年、ですけど」
「ふうん……そうか。うまくいってるのか?」
「いってないから、ご相談したくって」
 壊れかけの恋の相談は、新しい恋の前哨戦みたいなものだ。以前、起用したフリーのコピーライターが、そんなことを言っていたのを思い出し、陽一は気を取り直した。
「何か、あったのかい」
「わたしのことを好きだけど、わたしとは結婚できない、って言うんです」
「まだ君、二十四だろ? 結婚なんて急ぐことないんじゃ――」

「でも、五年たっても十年たっても、このままだと状況は変わらないみたいなんです」
「独身主義者か」
「いえ。自分が結婚したら、悲しむ人がいる。だから無理だって」
「前の奥さんとか」
「ううん。結婚してないんですよ、一度も」
 それは結局ただ遊ばれているだけじゃないか。と言ってしまったら身も蓋もないわけで、陽一はこれからの会話を密かにシミュレーションした。それにしても、若葉を弄ぶとはひどい男だ。
「なら悲しむ人ってのは、昔の彼女?」
「もう何年も会ってないって言うんですけどね。だって今はレセプションのときも、必ずわたしが同伴してますから」
  陽一は、ぴくっと眉が動いたのを見られないよう、注

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

意した。
「レセプション? 何者だい、その人」
 あ、うっかり言っちゃった。というように、一瞬言葉を止めて、それから恥ずかしそうに若葉は続けた。
「空間デザイナー。うちの会社が創業した頃、まだ社名が変わる前に、外注で依頼されたことがあるって言ってましたよ。その当時は、普通のデザイナーとして」
 あいつのことか。
 いや、あいつなんて言ってはいけない。六本木だの原宿だので、次々と話題のショップやビルをプロデュースしている時代の寵児。おい君、一緒に頑張って行こう、なんて肩を叩いたのは夢のような遠い遠い昔のことだ。
「真面目ないい人物に見えたけどな、あの頃は」
  陽一が、早くも特定したことに気づいて、若葉は包丁をまな板に置いて、手をエプロンのポケットに入れた。照れているらしい。

気にしてるんです。彼女は今、どうしてるんだろう、とか。それを、わたしに聞いてくるのはひどいですよね」
「やめろよ、そんな相手」
 思い切って言ってみた。
「でも……好きだから」
 はぁ、と思い切りため息をついてしまったことに気づき、陽一はあわてて取り繕った。
「しかし社員が迷宮から出られなくなっているのを、社長としては見過ごすことはできないねぇ」
「近いうちに、うん、本当に近いうちに、その彼女と話してみようと思って」
「直接?」
「そう、直接」
「なんて」
「他の人と結婚してください、って。そこまでしなくても、誰か新しい人をつくってほしい、って。そうすればき

 

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ブンゲイ ダ・ヴィンチ

「今もいい人ですよ。でもね、お姉さんのトラウマに縛られてるんです。いい意味でも、悪い意味でも」
「お姉さんのトラウマ?」
「ご両親がいなくて、年の離れたお姉さんにずっと面倒見てもらって大きくなって。だから、そのお姉さんの言うことは絶対みたいで」
「なるほど」
「で、昔の恋人のこと、そのお姉さんが気に入らなかったんですって。絶対に弟は渡さない。何があっても結婚は許さない、って。それが遺言みたいになって、お姉さんまで病気で亡くなって」
「ふうん」
「それで、お姉さんの強い願いだからって、彼はその人と再会しないことに決めて」
「極度のシスコンじゃないか」
「まあ、そうとも言えるかもしれませんけど。いつだって